カメキチの目
終章 個のいのち、つながるいのち
ほんとうに、長い間のおつき合い。ありがとうございました。
本書で著者の島薗さんがおっしゃりたいことは(私の紹介の拙さはおゆるしいただくとして ー ゴメンなさい)ほぼ述べました。
終章はキーワード的なものです。
最後の最後は、④で書いた深沢七郎の小説『楢山節考』から、むすこ辰平と彼に背負われて深い雪山に行くおりん婆さんの話でとじられています。
キーワードは、まさしく「個のいのち」と「つながるいのち」である。
言い換えれば、「個人=現在の私のいのち」と「みんな=過去から現在、現在から未来へと続くいのち」のこと。
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生き物はみな、それだけで存在しているのではない。「つながり」のなかで存在している。
いのちはみな、網の「結び目」のようなもので、孤立して在るのではない。横(空間)へも縦(時間)にもつながっている。
私が死んで(消えて)オシマイ。ハイ、それまでよ! ということにはならない。
「結び目」には限界がある。有限だからこそ「結び目」なのだろう(だって無限ならば、面のようにノッペラボウで広がり続けるだけ。行けども行けども行く着く先はない)。
「限りあるいのちの自覚」は決定的にだいじだ。
ひょっとして、『幸せのもと』かも知れないです。
それがあれば、「幸福に満ちたいのち」を求める意欲に傾きすぎ、現代のバイオテクノロジーの発展が生み出すエンハンスメントの罠の誘いに乗ることはないだろう。
だいたい、「幸福」とはなんでしょう?
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しかし、
「個のいのち」、つまり私の現在のいのちは、今だけのもの。1回限りのもの。なにより尊いもの。
先日、大手広告企業の「電通」社員の若い女性が過労自殺した責任は会社側にあるとの判決がありましたが、お母さんの「娘は帰ってこない」との悲痛な、声を抑えた会見がいつまでも耳に残りました。
「働く」という日常生活の場とは違いますが、(それも「労働」の一種には違いないでしょうが)いま問題の南スーダンでの自衛隊によるPKO活動としての「駆けつけ警護」で、自衛隊員が死ぬようなことがあったら、「(自衛隊は)徴兵制によるものでないから《自己責任》。ハイ、それまでよ!」で終わるのだろうか。「駆けつけ警護」の任務につくはめになったことを「ウンが悪かった」、そこまではよかったが「(死んで)ウンが悪かった」になるのか。
この前の『報道特集』というテレビ番組で、その南スーダンで、新しい国づくりの手伝いをしようというNGO職員の女性が、当の南スーダンの兵士に襲われ、レイプされた生々しい証言がありました。
戦後70年経ってもよく問題になる「慰安婦」ですが、戦場は、兵士を、本能むき出しの野獣にしてしまうのだと身震いしました。
(前に読んだ本に、思想家の鶴見俊介さんは「人はどんなとき自殺をしてもゆるされるか?」と問われ、まさにこんな事態、つまり自分の中の「眠った本能が露になりそうなとき」に自分が遭遇したときと答えておられたのを思い出しました。鶴見さんはこんな極限状態にあったら、自分もそうしてしまうだろう、自分を信じることができないと述べられていました。鶴見さんはそこまで自分に厳しい人だった)
「ウンが悪かった」といえば、東京の六本木の歩道を歩いていて、しかも、(上の方のビルで作業現場解体の工事をしているものだから)安全誘導の保安員さんの指示に従ったのに、鉄パイプが落下し、ウン悪く頭に当たって死んだ。
それを守る、だいじにすることが、「つながるいのち」を尊ぶことにつながる。
私をだいじにすることが、私につながる他の人をだいじにすることになるのだ。
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「おっかあ、雪が降って運がいいなあ」
(『楢山節考』の最後の最後の場面は涙なくして読めない)
「降り積もる雪」は、死者をこの世を超えた清らかな彼方へと運ぶものであるということができると著者は言う。
雪が降り積もった楢山は、先祖たちが安らぐ聖なる空間に変わると著者は続ける。
そう捉えると、『雪が降る』ことが『運がいい』というわけがわかる。
「涙なくして…」と書きましたが、じつは『楢山節考』をまだ読んでいないのでした(すみません)。私は、そういういい加減な人間、いやカメなのです。