カメキチの目
母の一周忌をひかえ、先日、連休だったので雪の心配もあり、早めに法事をした。
伯父夫婦、いとこや叔母など10人。これに子や孫を加えた小さな集まりである。
“小さな集まり”であるが、こんな機会がないとみんなが顔を合わせることがない。
わずかとなった親戚一同。
叔母やいとこたちと語ったり、しわの増えた顔を見ていると、深い感慨におそわれた。
私は「育った」んじゃなくて、一族のみんなに「育てられた」んだと。
幼いときは、イボのように山にへばりついた(裏は戸をあければ岩壁)伯父の小さなあばら家に、都会に出た一部の叔父・叔母をのぞいた親族が住んでいた。大家族である。「あばら家」といっても囲炉裏があり、竈があった。
歳の離れた従姉たちが姉のようにかわいがったくれた。
ある日、従姉が便所に入っているのに私は外からカギをかけた。あとさきや理由はまったく覚えていないが、事実だけは覚えている。よほど印象的だったのだろう。
先祖の土地は「猫の額」ほどしかなく、しかも山峡の、半日くらいしか陽がささないところだ。だから、百姓もできなかった。家が山にへばりついていたのも、土地がなく、そうせざるをえなかったのだろう。
前にみたテレビドラマに胸が響いた。
自分が子どもからおとなへと成長していく間に、はじめは傷ついたことばかりにとらわれていたが、ドラマに描かれたいくつかのエピソードを通して、どれだけ多くの人びとの手と思いがかけられていたかにだんだんと、主人公が気づいていくというものだ。
法事が終わり、ヨチヨチ歩きをはじめたばかりの孫を、ちょっと先に生まれたほかの孫たちが手を引いていた。
その子も、いまからどれだけ多くの、数えきられない手をかけられることだろう。
だれもひとりで生きてきたわけじゃない。