『やさしい唯識』 横山紘一・著
という新書本を読んだ。
「唯識」というのは言葉は聞いたことはあったが、むずかしいだろうという
先入観もあり、延ばしのばしにしていたが、手ごろな入門書を知った。
読んでホントによかった。
(グーグル画像より)
宗教にとって肝心かなめは信仰心だと思うけれども、その宗教独自の価値観が
あるようだ。
他の宗教のそれが何なのか。
(日本の仏教は、キリスト教ほどには「愛」は強調されない。
しかし「慈悲」と、表現はちがっても実質「愛」の実践を説いています)
仏教では、よく「慈悲」と対(ツイ)で「智慧」がいわれる。
(仏壇の三尊像では真ん中に釈迦または阿弥陀などの如来像で、両脇は慈悲の観音菩薩と
智慧の勢至菩薩。密教では「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」。それぞれ「慈悲」と「智慧」)
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仏教では、僧侶しかわからないような漢字の音読みだらけの連なりから成るお経を
あげてもらい、そのお礼にお布施をする。
(その僧侶の人柄を知り、尊敬できる人ならばいいが、そうでなければちょっとダマされた気がする。
《そう感じるのは私が捻くれているか、信仰心が不足しているからか》)
お経は「理解する」前に、「信ずる」ことがたいせつなのだろう。
(仏教を信ずるのですが、遅まきながらも理解もしたい。
『やさしい唯識』は「入門レベル」ですが、こんな高齢になっても人生を考えさせられる、
とてもいい話がありました)
仏教のことを思うと、どうしても三つの過去のことが思い起こされる。
きょうはそれを書き、本の感想は次回からにします。
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① 私の実家は浄土真宗。念仏するだけで極楽浄土できるという親鸞の宗派。
実家のすぐ近くには祖母、伯父の本家(貧しいのでごく小さな造りの一軒家)があり、
小さな家には似合わぬ大きさの仏壇があった。
読み書きもできなかった祖母は朝晩欠かすことなく仏壇に飯を供え、手を合わせ
唱えていた。「ナンマイダー…」
祖母にとって、「ナンマイダー…」とブツブツ唱えるだけで往生できると信じ、
死んだら浄土に行けると信じることは、どれほど生きている励みになったことか。
阿弥陀仏に見守られている、最後は極楽往生と、露ほども疑うことがなかったので
現世でのどんな辛いことも耐えしのべたに違いない。
(祖母のような超貧乏な生活をしなくてすむようになったけっこうな時代に生まれ育ってきた自分を
ふり返ると、年老いてから《③で書くことが起きなくても》信仰ぶかくなってきた。
といっても、自分が極楽往生できるとは思わない)
功徳を積まなくてもい、ただただ念仏という誰でもできる行いだけで「成仏」
「往生」できると説くことにより、民衆を救った親鸞の偉大さを、あらためて
思った。
(グーグル画像より)
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② 私にとっての次の仏教体験は、生涯でもっとも真剣に日本の現実を憂い、
革命(暴力ではありません)を夢みていたころ、創価学会信者の叔母や従姉から
国政選挙で「公明党に一票いれてね」だった。
創価学会の人々のお気もちには共感しても、権力に反逆する祖師、日蓮上人は
現在のような、政権与党にくみすることを決して許さなかったと思う。
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③ 最後は、「障害者になってしまった」こと。
細かくいえば、頭部外傷の事故で後遺障害となり(同じとき胃ガンにもなった)
退院した後、「さてこの身体でこれからどう生きるか、何をするか?」と
本屋さんをブラブラして見つけた禅語の文庫本。
(この少し前から「禅的精神」ということには興味があったが、「仏教」そのものではなかった)
私にしてみれば禅語から入った仏教だけど、その世界がこんなに深いとは、
そのときは知らなかった。