kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2018.2.7『日本辺境論』④

                                                  カメキチの目

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新書版ながら、この本はほんとに中身が濃かった。

だいたい新しいものには(本からの知識だけでなく)疎いので、「ハァー!」とか「ヘェー!」がたくさんでした。

 

きょうで本シリーズは終わり。最後の感想は、言葉、すなわち「日本語」のことです。

 

 感想④

 最終章は、「辺境人は日本語と共に」という。

 この本では強く、自分が日常で話している言葉、「日本語」というものを意識させられた。

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 思えば言葉とは、人には空気のような存在だろう。呼吸のように無意識、自然に操り、扱っている。

 言葉は、「そこからのイメージで生きている、生活している」といっていいだけの重みをもっている。

「言葉」が文化の中心、基礎といわれるのがうなずけます。 

 外国人になにか話しかけられたり、英会話を学ぶとかしないと、「自分がいつも日本語でものを感じ、考え、伝えている…」ということを意識しない。

 

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 いまあたり前のように話している日本語が、「文明開化」いわゆる「近代化」において、どんなに大きな役割を果たしてきたかを、この本で新たに知った。

「日本語はたいしたもんだな」と感心した。

(日本語の構造とか特徴とかはいろいろと論じられた本が出ていますし、またネットで調べればすぐわかることで)この本のなかでもそういうことが述べられていましたが、それは略し、私がいちばん感じたことの部分だけ引用します。

 

本書からの引用

「真名」と「仮名」の使い分け

(外来の文字、すなわち漢字が入ってきて)それが「真」の、すなわち「正統」の座を領したのです。そして、もともとあった音声言語は「仮」の、すなわち「暫定」の座に置かれた。外来のものが正統の地位を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。これが日本語の辺境語的構造です。

土着の言語=仮名=女性語は当然「本音」を表現します。生な感情や、剥き出しの生活実感はこのコロキアルな土着語(日常的な言葉。口語)でしか言い表すことができません。たしかに、漢文で記された外来語=真名=男性語は存在します。…

けれども、私が知る限り、学術的論件をコロキアルな語法で展開するということに知的リソースを投じるという習慣は欧米にはありません。学術的論件は学術的用語で語られ、生活事象は生活言語で語られる。…

(日本だけが例外的に、土着語だけしか使用できない人間でも大学教授になれ…)それは英語やフランス語で論じられることは、ほぼ全部日本語でも論じることができるからです。どうして論じられるかといえば、外来の概念や術語をそのつど「真名」として「正統の地位」に置いてきて、それをコロキアルな土着語のうちに引き取って、圭角を削って、手触りの悪いところに緩衝材を塗り込んで、生活者に届く言葉として、人の肌に直に触れても大丈夫な言葉に「翻訳」する努力を営々と続けてきたからです】

 

「真名」と「仮名」の使い分け

という視点から、内田さんは日本語をとらえる。

 

 もともとの言葉(真名)、つまり真(正統)の座にすえられた言葉は万葉の時代から受けつがれてきた(土着の言語)「平仮名」であった。

 しかし、「漢字」が中国から入ってきて逆転した。

 すなわち、漢字が真名となり、正統の座についたのだ。平仮名は仮名として低くみられるようになりました。

 確かに仏教をはじめ、大陸からドンドン、新しい文化を輸入し「消化」してゆくために漢字を取りいれることは欠かせなかった。

 

 そしてじつは、私が驚いたのは、引用の後半部分。

 

 漢字と平仮名(それに片仮名が加わり)。これらが渾然一体となった日本語

 この言葉のおかげで、文化(科学・技術などの文明を含め、すべての知的なもの)「学者・知識人」たちの占有から民衆に開放されたことである。

 日本では、英語・フランス語・ドイツ語・ラテン語などの外国語で叙述された「近代」が、日本語に、それも「生活者に届く言葉として」絶えることなくせっせと翻訳された。

 昔からの日本語にない外国語の語彙は、(なかには正確な翻訳はむずかしいことがあったにしても)ニュアンスも含めて可能なかぎり正確に訳され(カタカナ語などに)、一般民衆への教育を通じての「近代」の浸透は、アジア諸地域のなかでいちばんに「近代化」(すなわち「欧米化」)を成しとげることになったと説かれていた。

「ブリコルール」という言葉も日本語に翻訳しにくかったのでしょう。だから無理して日本語に訳さなく、カタカナ表記で「ブリコルール」と一般的に使うようにしたのだと思います(私が初めてこれを知ったのは本で読んでのことだったからよかったですが、聴力の障害のため発音がはっきり聞き取れない今なら、「ブリッコルール」と取ったかもしれません。

どうしても訳しにくいものはその外国語をカタカナで表記する。日本語は、話し言葉もさることながら、書き言葉もすばらしいと思った。

 

 

                  ちりとてちん