カメキチの目
山 中 暦 日 無 し
(さんちゅう れきじつ なし)
「唐詩選」より
(中国・唐代の詩。正確には「禅語」とはいえないのかもしれないが、禅語の
本にあった)
「偶(たまたま)松樹の下(もと)に来たり 枕を高くして
石頭に眠る 山中 暦日無し 寒(かん)尽くれども
年を知らず」
『心が晴れる禅の言葉』赤根祥道・著より【引用】
地位があがるにつれて、…自動車の中で昼食をとり(ほど忙しくなる)…
人生の幸せがその中にあるとは、どうしても思えない。
ぶらりと旅に出て、老松の枝ぶりのよいのが見つかった。ここで一服しようと、横になる。そのうち、ぐっすりと眠ってしまった。今日が何日なのかもう忘れてしまった。寒さが消えたから春になったらしいが、一体、(自分が)何歳になったのかも忘れてしまった。…
この言葉に触れてから10年あまりになる。
その前に障害者となり、「これからどうするか?」
「どういう気もちで生きてゆくか?」と、それなりに
悩んでいたとき、たまたま立ちよった本屋さんで、
手がるな文庫本におさまった「禅語集」が目につき
買った。
禅語ばかり集めた同じような文庫本が3冊あったが
みんな買った。
(そのうちの1冊にこの言葉《詩文》が載っており、忘れられなくなった)
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「仙人」のような境地に惹きこまれた。
本物の仙人は、石山の上で瞑想にふけったり、
滝にうたれるなどの苦行を目的にしており、
苦しく辛い修行の果てにたどりつき、骨と皮に
やせ細り、ボロをまとっているが、凛とした風情
たたずまいというカッコよさがある。
「山中 暦日無し」には目的はない。
カッコよくない。
寅さんのようにブラリぶらりと旅していたら、
たまたま老いた松に出あった。たまたまその
すぐそばに石があり、疲れてもいたので眠った。
ぐっすり眠った、というわけだ。
いつまでも眠っていたら死んだことになるので、
ある日、起きた。
起きたのはいいけれど、今がいつなのか?
当の自分は何歳だったのか?
忘れたという。
(カッコよくはなくても、ここだけは「仙人」)
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この解放感、開放感(といえばイイように聞こえる言い方
だけど、要するに「グータラ」)が嫌いな方もおられようが、
私は大好きである。
(生まれ育った集落に、わが家の隣には厩みたいな小屋があった。
そこには馬ではなく、山姥のような老婆が住んでおられた。
90を越されていたようだが、何歳かわからないらしい。ご本人には歳なんか
どうでもよかったのだろう)