カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.7.28 「山中暦日無し」

        カメキチの目

 

 

      山 中 暦 日 無 し

          (さんちゅう れきじつ なし)     

                                                 「唐詩選」より

 

 

(中国・唐代の詩。正確には「禅語」とはいえないのかもしれないが、禅語の

本にあった)

 

「偶(たまたま)松樹の下(もと)に来たり 枕を高くして

石頭に眠る 山中 暦日無し 寒(かん)尽くれども

年を知らず」

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『心が晴れる禅の言葉』赤根祥道・著より【引用】

地位があがるにつれて、…自動車の中で昼食をとり(ほど忙しくなる)

人生の幸せがその中にあるとは、どうしても思えない。

ぶらりと旅に出て、老松の枝ぶりのよいのが見つかった。ここで一服しようと、横になる。そのうち、ぐっすりと眠ってしまった。今日が何日なのかもう忘れてしまった。寒さが消えたから春になったらしいが、一体、(自分が)何歳になったのかも忘れてしまった。…

 

 この言葉に触れてから10年あまりになる。

 

 その前に障害者となり、「これからどうするか?」

「どういう気もちで生きてゆくか?」と、それなりに

悩んでいたとき、たまたま立ちよった本屋さんで、

手がるな文庫本におさまった「禅語集」が目につき

買った。

 禅語ばかり集めた同じような文庫本が3冊あったが

みんな買った。

(そのうちの1冊にこの言葉《詩文》が載っており、忘れられなくなった)

 

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「仙人」のような境地に惹きこまれた。

 

 本物の仙人は、石山の上で瞑想にふけったり、

滝にうたれるなどの苦行を目的にしており、

苦しく辛い修行の果てにたどりつき、骨と皮に

やせ細り、ボロをまとっているが、凛とした風情

たたずまいというカッコよさがある。

 

山中 暦日無しには目的はない。

カッコよくない。 

 

 寅さんのようにブラリぶらりと旅していたら、

たまたま老いた松に出あった。たまたまその

すぐそばに石があり、疲れてもいたので眠った。

 ぐっすり眠った、というわけだ。

 いつまでも眠っていたら死んだことになるので、

ある日、起きた。

 起きたのはいいけれど、今がいつなのか?

 当の自分は何歳だったのか? 

 忘れたという。

(カッコよくはなくても、ここだけは「仙人」)

 

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 この解放感、開放感(といえばイイように聞こえる言い方

だけど、要するに「グータラ」)が嫌いな方もおられようが、

私は大好きである。

 

生まれ育った集落に、わが家の隣には厩みたいな小屋があった。

そこには馬ではなく、山姥のような老婆が住んでおられた。

90を越されていたようだが、何歳かわからないらしい。ご本人には歳なんか

どうでもよかったのだろう)

 

 

 

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                             ちりとてちん

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