カメキチの目
放 下 著
(ほうげじゃく)
『六祖壇経』(ろくそだんきょう)より
注:『六祖壇経』(ろくそだんきょう)は、禅宗における根本教典のひとつで、中国禅宗の第六祖・慧能(えのう)の説法集です。
生きておればいろいろある。
いろいろあって人生。
思うようにはいかないこともある。
思ってもみないことが起こる。
長く生きてきて、しみじみそれを感じます。
人生は長いほどよい。残せるものが多いほどよい。
長く生きれば価値が増えるというものではないだろう。
長く生きているうちによけいなモノ・コトが増えてきているのではないか。
ウチにはもともと物が少ないので片づける物がなく、私はミニマリストになれないが、物に真剣に向き合い、片づけるなかで自分の生き方をだいじにしようというミニマリストの方々の心が(歳をとってから)わかるようになった。
私は、「心のミニマリスト」と呼ばれるようになりたい。
「心のミニマリスト」になるには、先ず財産、地位、名誉…を捨てなければならないが、これらはどれも私には無縁だからクリアできる。
しかし、上記のものは目に見えるものです。
肝心なのは、目に見えないもの。
いったい、なに?
「記憶」や「思い出」…。すなわち過去…。
生きているのは現在で、その現在は過去の続きである。「私のイマ・ココ」を支えている、というよりかつくってきた過去を捨てようという。
ジョーダンじゃない!
しかし、放 下 著は、説く。
過去を断ち切る(捨て去る)ことは記憶喪失にでもならない限り不可能だ。
ひと口に「過去」、記憶や思い出といっても、大きくは思い出すことが+のエネルギーになるものと-のエネルギーになるものがある。
でも+、-と価値づけしてもしかたない。+、-ふくめて私の人生、私の過去なのだから。
で、
一旦は、どっちも捨て去ろうという。-だけでなく+も。
ここが 放 下 著 の真骨頂、スゴイところだ。
それが自分にとってよいことか、よくないことなのか。
できごとはすべて、自分の脳が判断している。価値づけしている。
しかし、
できごとはすべて、自分の努力を含めて、神仏のような超越者(個人としての「私」を乗り越えた)が私という具体的な個人にあずけた仮(カリ)のモノ・コトと想ってみよう。
で、
一旦はすべて捨て去ってみる。
すると、心はずいぶん軽くなり、いかに自分が要らないモノ・コトに心のエネルギーを注いでいたか、浪費していたかに気づく。
気づけばしめたもの。
こんどは逆に慎重に、ホントに慎重になって、要るモノやだいじなコトを拾い集めてみよう。
拾い過ぎたらどうしよう?
そんなことワシは知らん!