前の記事で「贈与」について自分なりに考え、思ったことを書いてみたけれど、
それは人生に当てはめてみたようなもので、少しまえに読んだ『日本の文脈』
(内田樹・中沢新一の対談)という本に強く刺激されてのことだった。
(きょうは本に述べられていた社会からみた「贈与」についての話です)
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「基本的人権」「民主主義」「平和」「自由・平等・博愛」など
社会制度や理念など目に見えないものも「贈与」だ。
目に見えず、空気のようなそれらは、あってあたり前と思われている。
ふだんは意識することがないほど慣れている。
それらは、先人たちが限りない血と涙を流して得たもので、子孫の私たちに
受けつがれてきた「贈与」といえる。
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日本には、戦争をしかけるプーのような輩を許すほど「民主主義」がないわけでは
ないし、ウクライナのような戦争状態にあるわけでもない。
しかし、火事はいつなんどき起きるかもしれない。
(地震など自然災害は被害を減らす努力はできても、起きることを止めさせることはできないが)
火事は起こさないことができる。
戦争も同じ。
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【引用】
「でき上がった社会制度の倫理と、その社会を可能にした人々の倫理のあいだに
致命的な乖離がある
…
民主主義が効果的に機能するのは、血を流してこのシステムをつくった人が現にいるのだという切迫感
その人たちから贈与されたものであるという被贈与の感覚があってこそ
…
その「感謝の気持ち」が時間とともに希薄化していって、デモクラシーというシステムが…昔から
自然物のようにずっとあった(と思うと)うまく機能しなくなる」
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生まれたときからすでにあるなじみの物事は、目に見えるモノと見えないコトを
問わず、あって「あたり前」と受けとるのは当然なことだ。
「基本的人権」「民主主義」などは目には見えないコト。
だが、スマホなどのモノは目に見える。
生まれたときには既にスマホがあった人たちは、なくても生きてはいけるとは
わかっていても、スマホのない生活は生きていてもつまらない、おもしろくない。
それは役だっていることが日々、目に見えて感じられる。
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生まれたとき、日本はモノは少なく貧乏だったが平和な世のなかになっていた。
いまはあたり前の平和な風景。
それが、命をかけ戦争に反対したごく少数の人たちと、やむなく戦争で死んだ
圧倒的多数の人たちの犠牲のうえにある事実を知ると、平和も「贈与」されたこと
痛切に感じる。