『日常のなかの禅』という本を読みました。
著者の南直哉(じきさい)さんは下北半島にある恐山の住職代理をしておられる
お坊さん、禅僧。
書名から、坐禅の効用を説くものかと思っていたら大間違いだった。
仏教は「無我」「無常」「縁」「空」…わかるようでわからないことを説く。
(「禅問答」はその典型。ある高名な禅師が竹の音を聴いて悟ったという伝えは
おとぎ話にさえ思われますが、「悟るとはそういうもんか」とも…)
南直哉さんは、プロフィールをネット検索すればわかりますが「異色の坊主」
という印象を抱いてしまう。
子どもの頃から「死」を意識し、悩み、あげくの果てに仏門に入られたという、
家が寺だったから親のあとを継いで坊さんになったという人ではありません。
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本を読んで心に深く残った四つのことのうち、きょうは①「自分の根拠」
②「縁起」を書きます。
(③「戒律」は次、④「坐禅ほか」は次の次)
(※ 初めにお断りします。本からの引用文はすべて青字ですが、
これまでの記事のように【引用】は書きません。
引用文のなかの一部には赤字や太字のところもあります。
赤字や太字であっても、引用文か私の文章かは
お読みいただければわかるようにしました)
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■①「私」という人間の根拠
著者は本の冒頭で、宗教というのは、
「自分が今ここに生きていることの意味」、その問いこそが、
宗教を宗教として成り立たせていたはずなのだ。
と言う。
続けて著者は述べる。
オウム真理教に走り、卑劣で凶悪な事件の手足となった若い信者たち。
彼らには、伝統教団はまったく無力な存在だった。
(若い信者たちは、宗教に「自分が今ここに生きていることの意味」
人間存在の根本的な問いを求めた)
著者は、宗教の根本を「自分が今ここに生きていることの意味」
と述べられるが、ひと口に宗教、仏教といっても
南さんの属する禅宗はいわゆる「自力本願」を説き
(釈迦の言説をもっとも忠実に守っているのは道元禅師であると述べられる)
自己にとても厳しい。
こっちは阿弥陀さまにただおすがりし、念仏を唱える
だけで誰でも極楽往生できると説く。
前者が心の安寧を求め自己錬磨のため修行(坐禅など。しかし誰でもどこでも
とはいかない)を重視するのに対し、後者は心の救いを求め念仏(という誰でも
どこでも気軽にできる)を重視するという違いを感じるが、その違いをお互いが
認めあっている。
自分の方が正しいと(心では)思っているのかもしれないが口にしないのがいい。
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「私」に根拠はあるか?
ない(NO)。
著者は「私」の存在に根拠はないことを、「コレクション」「ブランド」を挙げて
説明される。
「コレクション」「ブランド」に「所有」の意味、本質がよくあらわれている
として
↓
それらの物を所有したがる欲望は、「最初から失われている」「根拠のない」
(自分という人間存在)の「根拠」への欲望ではないのか。
つまり、物を所有することをもって、本来的に存在根拠のない「私」に、根拠を
持たせようとしているわけである。
(自分の存在を他人に示す、あるいは自慢するために「私のステータスシンボルは
〇〇《〇〇はモノではなくコトであってもよい。なんでもかまわない》」と言う
ことがあります。
「ステータス」とは、私は〇〇を「所有」している、持っている、備えている、
属している、というような「アイデンティティ」に似ているものかもしれません)
著者は、
結局、物欲とか所有欲とは、いわば最初から失われている「根拠」への欲望では
ないのか…
また、
我々は生まれたいときに、生まれたいところに、生まれたくて生まれてきたわけ
ではない。ならば、総じて苦しみの本質とは「思いどおりにはならない」
ということであろう
と述べられる。
思いどおりにはならない=欲望どおりにはならない。
そもそも生まれることからして受け身であり、生れたときから苦しみが始まると
いう(ブッダは「四苦」《生・老・病・死》を説き、生きることそのものが「苦」
だといいます)。
そう考えると、「子ども」というのは生まれたいときに、生まれたいところに
生まれたくて生まれてきたわけではないという事実の偶然、不思議、重みを
痛感します。
(たしかに「わが子」は自分の子どもなのですが、同時に「天の子」「神の子」
でもある)
「私がいる」ということはまぎれもない事実なのだが
根拠はない。
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欲望の核心が所有で、所有の実質的意味が自己決定であり、自己決定が
「自分であることの根拠」とされうるなら、
欲望と所有と自我(「自分であることの根拠」)は、三位一体のトライアングルを
形成する。…
(※「所有」というのはモノを持っているということに限りません。
上述した「ステータス・シンボル」や「アイデンティティ」も)
著者は、人間は自分という人間の存在の根拠を
求めて「所有」に走るのではないかという。
↓
欲望の核心が所有で、所有の実質的意味が自己決定
(自我)であり、自己決定(自我)が
「自分であることの根拠」とされうる
何かを「所有」するとき、その何かを「所有」しようとするのは自分が決めること
そこには「自己決定」する自分の存在(自我)が確認される。
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しっかり理解したかどうかはわからない。しかし、なんとなくうなずかされる。
南さんは他の本でも「これ哲学書?」と思わせるような理屈っぽい議論をされる。
難解な話についてはいけないことがあるけれど、人生とは?とこの歳になっても
迷う者として、「そもそも…」という元に立ちかえることが好きな者として著者の
話には惹きこまれる。
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■②縁起
存在すること、居ることの根拠のない「私」だが、
実際にはそこ(ここ)に居る、存在する。息をしている
著者は、有名なデカルトのいう「われ思うゆえに我あり」のような抽象的な「我」「私」がそれ自体として存在するわけではないという。
が、仏教は「縁」「関り(関係)」「絆」「ネット」のなかにはあるという。
(「縁」を通じ、「関り」においてこそ、そのモノ・コトが、それとしてある、
存在するという)
「私という人間の実体」という言い方をすることが
あるけれど、著者に言わせれば、そういう「実体」
(「本質」とか「絶対的存在」ともいい、デカルトの「我」も同じ)
というものはない。
著者は「縁起の思想」ということを述べる。
「縁起」の思想
あるものの存在は、それ以外の別のものとの関係においてあるのであり、
それとの関係に由来すると言うのである。→「縁起」
〈言語というわな-無明と縁起〉
言語によってさえぎられるもの
あるものの存在が、それ以外のものとの関係においてしか成り立たないこと
-このことに対する無知を「無明」だと考えれば、無明の正体は
言語のはたらきそのものであろう。
言語は、関係において生成されている事態(縁起)を一定の型に固定し、
あたかもそれが最初からそのもの自体で存在しているかのよう思い込ませる。…
これが言葉のわなである。
(ここで著者は具体的な話として「私」と「机」の関係を考える)
「机」の認識を土台で支えているのが、「として使う」という関係である
にもかかわらず、言葉が壁になってそれをさえぎり、隠してしまうのである。…
ここで注目すべきは、机に対する「私」の存在である。
机を使っているときの私は、机を使っている限りでの私であり、
それ以外のいかなる現実的な「私」もありえない。
この行為的関係こそが「私」の実存である。
だが、言葉の壁が関係の場をさえぎると、
「机」と「私」がそれぞれ独立自存したものに思われる。→「無明」
「行為的関係こそが「私」」の「行為」と「関係」、
これこそが著者のいう「縁起」のキーワード。
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この世への誕生という事実からして「私」の存在に
根拠はなく、抽象的な宙に浮いたような私の「実体」
などというものはない、と著者はいう。
しかし、南さんは同時にこうもいう。
私を取りまき囲む周り、つまり環境・物事との縁、
関りのなかで、それらへ働きかけ、行為する者として
そこ(ここ)にある(いる)。
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私にはこの本だけでなく、南直哉さんの本はどれも
かたく深刻で、気楽には読めなかった。
が、自分に厳しく他人にはとてもやさしいお顔を、
最初に書いたNHKEテレの番組で感じていたので、
「よくも読者をむずかしい顔にさせる本を…」と
ブツブツ言いながら読んだ。
きょうのところで、こんな印象に残る文もあった。
造られゆく「私」ということで、
(母親から生まれた赤ん坊としての私は)ある他者から「子」であると認められて
初めてこの世での生存が許されるのである。…
我々は他者をかたどって、自分の体にしていくわけである。