カメキチの目
8月はやっぱり「戦争絶対反対」との訴えがあっちこっちでなされます。
それは「生を否定」することだから、きわめてあたり前のことであり、けっして「多すぎる」ということはないと思っています。
私も「加川良」、「毒蝮三太夫さん」に次いで3記事目。これで終わります。
『夕凪の街 桜の国』というドラマがNHKで8月6日にあった。
『この世界の片隅で』と同じ作者のもので、原爆の悲惨さを描いた胸うつ作品でした。みてほんとうによかったです。
■子どものころ、(そこからはずいぶん離れた山の中に住んでいましたが)「子ども会」でよく原爆ドームを見て、慰霊碑に参拝し、原爆資料館に入った。
子どもだったので(おとなに)「連れていかれた」、つまり「させられた」印象が強い。
(でも「子ども会行事」なので遠足みたいなもの。あとからは楽しみが控えていた。広い公園の芝生のうえでの弁当は貧しいおかずでもうまかった。めったに乗れないバスに乗り、移りゆく車窓の景色を眺める。都会には立ち並んだビル群があり《行かないけれど》百貨店もある。《乗らないけれど》チンチン電車も眺められる。当時の田舎の子どもはこれだけで最高に嬉しかった)
■子ども時代は「させられた」が、大きくなって自分から訪ねてみるようになった。
平和記念公園内のさまざまな記念物(像)、オブジェ、今は残っていないだろうが公園近くに赤レンガの建物があり、記録しておこうとカメラを向けた。
ドラマに「原爆スラム」が出てきたのでたまげた。
■二十歳のころにタイムスリップしたかと錯覚した。
(東南アジアやアフリカの貧しい街がテレビに映ることがありますが、あれによく似ています。屋根からは雨が、うすいベニヤの板の壁からは隣の話ごえがもれてくるバラック仕様の家々。子どもの多さが目だち、足の踏み場もないような雑多さ。ひとたび伝染病が発生すればすぐに広がりそう)。
■そのころの私は、いわゆる「勘当」状態であり、食っていかねばならないので住みこみの新聞販売店で働いていた。
その店の「新聞少年」に、スラム街からくる子どもたちがいた。彼らから「オニイサン」と呼ばれていい気の私は自分の住んでいた四畳半に彼らを招いてワイワイ騒ぎ、騒ぐだけでなくときには勉強もみた(スラムは朝鮮の人たちが多く、そこからくる少年もいました。差別に負けるなと、ちょっとエラぶって言ったこともあります)。
もちろん私のほうから彼らを訪ねることもよくあった。スラム街(住所は「基町」《もとまち》という)は、原子爆弾落下時の熱さと後からの喉の乾きを癒すため、水を求めて大勢の人々が押し寄せ亡くなったという川の土手すじにあった(原爆ドームはすぐそば)。
■とうじ中学生の彼らと過したのは1年あったかどうか。自分の新たな「進路」のため、遠い地に私は行った。
それからしばらくして、「原爆スラム」はすべて取り壊され、基町には高層アパートが建てられ、スラム街の住民はうつった(中には「うつらされた」と感じていた人も大勢いたと思う。「掘っ立て小屋だったけど、自由気ままに過ごせた」)。