カメキチの目
②〈弱さ〉に従う自由、「弱い者」に従う自由ということ。
「弱い者」とはここでは老人ですが、それ以外の「社会的弱者」と呼ばれる人たちも含みます。
なんで社会全体が「弱い者」、そういう立ち場の人々をまもらなければならないのか?
それは自分がいつなんどき、そういう立場になるかもしれないということもあるけれど、そもそも「強い」とか「弱い」とかいうけれどそれはどういうことなのか?
「強さ」「弱さ」という相対的なものを超えたところから人間が生きる、いのちというものをとらえてみなければならないと、著者は言っているようです。
【引用】
「〈弱さ〉に従う自由
他なるものの受容
ひとは自然環境に、他者たちに、依存しないでは生きてゆけない。そして、まるで自立が依存を含まないかのように考えたところに、自然を加工と支配の対象とみるテクノクラシー(技術支配)や、他者たちを管理の対象とみるビューロクラシー(官僚支配)が生まれた。
これに対して、意にならないものの受容、そういう抵抗の経験をおのれの内に深く湛えることがいのちの成熟であり、その意味では、〈老い〉は、他なるものの受容の折り重なりとして各自に体験されるものである。…
ひとはそれぞれの時の流れのなかに住まっている。同じ流れのなかに、というのは虚像にすぎないのであって、ちょうど二つの異なる列車がたまたま同速度で並行しているときに、二つの列車に別々にいるひとがたまたま同じ時間を共有していると思い込むだけのはなしだ。
相手の別の流れへの想像力をじゅうぶんにもたないと、速度はずれ、気がついたときには列車は遠く離れている。そういうずれが、ひととひととのあいだにはよく生ずる。だから、別の流れのなかを流れているどうしが、流れるままにその流れを同調させあうという意識的な努力が、齢を重ねたひととひととのあいだではいっそう必要になってくるのだ。…
これは、〈老い〉とともに、ひとは人生を「できる」ことからではなく、「できない」こと、もしくは「できなかった」ことから見据えるようになるということだ。そして「できなくなる」こと、「できなかった」ことのほうからじぶんを見つめるようになるということは、何をする(あるいは、してきた)かというよりも、じぶんが何であるか(あるいは、あったか)という問い、さらにはじぶんがここにいるということへの意味への問いに、より差し迫ったかたちでさらされるようになるということだ。…
(〈老い〉は〈障害〉と似ている)しかし、〈老い〉を問題とは考えない、だれにでも訪れるふつうのこととして考えることから出発したわたしたちからすれば、それは遅れでもなければ、不適応でもなく、なおさら矯正されるべきものでもあるはずがない。…ノーマライゼーション(ノーマル化)ではなく、ノーマルという規範的観念そのものを、限られた観念として相対化してゆく、そういうときに批判的にもはたらく視点として、である。…
ここでふと思い出されるのが、「扶養家族」という、響のわるい言葉である。養う者と養われる者という関係が、あたりまえのようにいまの家族のなかには設定されている。…この背景には、賃労働が仕事の平均的なかたちになったという事情と、戸籍上の家族ごとに「所帯主」を設定するという法と税の制度がある。
が、ここで「所帯主」として、基本的に、自活でき、自己決定でき、自己責任をとりうる成人男性が想定されてきたとすると、それはとんでもない幻想である。そんな「強い」主体など、たぶんどこにもいない。
就職というのは、言葉はわるいかもしれないが、食い扶持を求めて、「ぶら下がり先」を探すということだ。扶養家族は所帯主に、所帯主は会社等に「ぶら下がる」、そういう仕組みがいまの社会にくまなく設定されているというだけのことだ。…
ここでわたしたちが問われているのは、「自立」した個人を前提とした秩序であり、何かを生みだすことをあるものの価値基準とする思考法である。成熟ということをわたしたちの社会は、さまざまなことをじぶんでできること、(じぶんの身体もふくめて)生きるに必要な多くのものを意のままにできることとして了解してきた。が、何かを意のままにできるということがいのちの成熟なのではない。そうではなくて、意のままにならないということの受容、そういう「不自由」の経験をおのれの内に深く湛えつつ、何かを意のままにするという強迫から下りることを自然に受け入れるようになるのが、いのちの成熟であろう。…
がしかし、その存在の意味がなくても価値があるというところに、〈老い〉の問題は賭けられている。… 「がんばれ」というのは、「強い」主体になれということだ。…そういう「自立した自由な」主体が、社会の細胞として要請される。それ以外の者は、「社会にぶら下がる」ことでしか生きられない保護と管理の対象とみなされる。そしてそういう「自立した自由な」主体を想定して、近代の法制度は作られてきた。そういう合理的に行動する市民的個人を前提として近代経済学は作られてきた。…」
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このなかで私としては、三つの言葉が気になりました。
一つめは「ノーマライゼーション(ノーマル化)」。
引用文なかほどの
(〈老い〉は〈障害〉と似ている)しかし、〈老い〉を問題とは考えない、だれにでも訪れるふつうのこととして考えることから出発したわたしたちからすれば、それは遅れでもなければ、不適応でもなく、なおさら矯正されるべきものでもあるはずがない。…ノーマライゼーション(ノーマル化)ではなく、ノーマルという規範的観念そのものを、限られた観念として相対化してゆく、そういうときに批判的にもはたらく視点として、である
・私は障害者でもあるので、この部分がよくわかります。実感として納得される。
(よくいわれるように)「障害」はたしかに「不便」だが「問題」とは感じていない。
障害がのこる身体になった事故で入院していたときのリハビリ訓練。「やらんとちょっとでもよくならんしなあ」とイヤイヤながらも真面目に取り組んでいましたがイヤはイヤ、(もともとの怠惰な性格を差し引いても)「よくならんでもいいやあ」「このままでも…」とも思っていました。
じつは、本やテレビのドキュメンタリーでご本人のなみなみならぬ努力で障害を克服したという話は感動的で、そんな方を尊敬しますが、それをみならう、目標とするのは別な話であり、自分にはとうていムリだなぁと思うダメ男が私の正体。
・かつては障害児者の福祉施設はコロニー方式(形態)で運営されるところが多かった。最新鋭の専門リハビリ設備なども整った大規模な建物が、環境も静かな自然が豊かな場所に立地された(しかし、人里・街からは遠く離れていた)。
その後、そういうのは一種の「隔離」政策で、「ノーマライゼーション(ノーマル化)」がたいせつではないかと言われてきました。つまり、街中の、だれとでも触れあえるような環境で、少人数の小さなどこにでもあるような住宅での生活、介護が望ましいと。障害があっても普通学級で育つほうが本人にも周囲の子どもたちにとってもいいといわれたように。
しかし、障害を少しでも克服し、より自由にふるまえるようになるよう専門的な訓練、療養ができるほうが本人のためにはだいじなこと(とくに子どもの場合は成長が著しいので、その時々に応じた適切な専門的治療、訓練が施される必要がある)だという考えもあります。
いま私はどっちもどっちでだいじだと思っています。「ノーマライゼーション(ノーマル化)」も、専門的な施設も。どっちもガチガチ固定的にとらえるのじゃなく、個々の本人(当事者)、家族が自分たちの考え・思い、実情にあわせて自由に選べられるようになればいい。
それは、介護における「施設」か「在宅」でも。
二つめは「扶養家族」。
三つめは「がんばれ」。
ちりてちん