カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.2.15 『老いの空白』④

                                                  カメキチの目

 

③ べてるの家の試み

べてるの家」は北海道、襟裳岬ちかくの浦河という町にある精神障害をおった人たちの福祉施設(働き、生活する場)。

 べてるの理念、運営、取りくみのすばらしさは以前からさまざまなところで紹介されており、私も働いていたときから知っていました。

(著者の言葉で、あらためてそのすばらしいヒューマニズムを教えられた)

 

べてるの家」をつくったのは向谷地さんという元ソーシャル・ワーカー。

 鷲田さんはべてるの家」から学ぶことがいっぱいあったようで、ここでは著者自身、向谷地さんの言葉を多く引用されています。

 向谷地さんの、人間のあり方や生き方への深い洞察、その理念というか思想を現場で具体化、実践には驚かされます。

 それは狭い意味での「社会福祉」という枠にはおさまりきれないほどのだいじなものだと、鷲田さんはたいへん注目される。

 

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【引用】

 「苦労をたいせつに」 

「治る」というのは生きていくうえでの別の苦労に戻ることでしかない。「だから病気を治すとか克服するということではなくて、人間には生きていく上でいろんな苦労があるよね。どの苦労を選ぶ?そのセンスを重視するのです。『どんな苦労を選びたい?』と問いかけるのです。苦労を避けて通るとか回避したりするのではなくて、どっちにコロンだって人間苦労だよね、って」と、向谷地さんはいう。…

克服してはならない苦労や苦悩があるということ…

 

(苦労にこそ、病にこそ、意味があると考えるべてるの家)「ミーティング」のなかで、たとえばこんなことが起こるんです、と向谷地さんは説明してくれる。「(アイツのほうが…と仕事の働きっぷりへの不満を述べる)自分がいままで会社でされてきたことをしようとしている、と」。…

…それは無意識のうちに、人生でどんな人と出会うかは、じつは選べそうで選べないことだと思うようになった自分と出会うことでした。これは、なかなか愉快なことでした」(べてるの家の人を雇う小山直さんという社長さんの言葉)

「人を選ぶ」ということの不遜。「人を選ぶ」という態度が、結果として、みずからを「人に選ばれる」存在に貶めてしまう。そんな因果論理が、ふつう会社で問いただされることがあるだろうか。およそ企業の運営が「生き方」の問題として問われるというようなことが。…

 

「再発」、それがじつはこの「企業」を危機から救うのだと、向谷地さんたちは本気で考えている。こういうセンサーをもったひとを排除することこそ、「企業」にとって最大の危機である、と。「がんばり」こそが「企業」を危うくする、と。向谷地さんたちによれば、「発病」は「関係の危機を緩和する装置」として働いているのであって、こういう緩和装置をもたないと集合態はただのマシーンになり、ひとりひとりは歯車としてただただ回転するか、きしんで停止してしまうか、その両極へと追いつめられる。…

(向谷地さんの言葉)「…精神障害ということで病院のカルテのある人たちよりも、カルテのない人たちの悩みの現実の方が深刻ということさえ起こってきたんですね。…『私たちが普段の暮らしのなかで忘れてきた、見ないようにしてきた大事なものを、精神障害という病気を通して、教えてくれる人たちなんだね。あの人たちは嘘を言ったりとか無理をしたりとか、人と競ったりとか、自分以外のものになろうとしたときに、病気というスイッチがちゃんとはいる人たちだよね。私たちの隣に、そういう、脆さを持った人たちが居てくれることの大切さを考えたときに、とっても大事な存在だよね。社会にとっても大事なことだよね』…」…

妄想や幻聴も「特技」としてとらえられている。「病気は治すより活かすです」とは、川村先生の弁である。→「分裂病の症状、たとえば幻聴の症状を取ることに生涯をついやしても、いまのように自分に幻聴があるんだということをみんなの前でおおらかに話せる社会を作るほうがいい。病気があっても損しない社会ですよ。精神病なんていうのは、まわりにばれちゃったらひどく損するものじゃないかと、そういう恐れを抱かれてきた病気です。でもその恐れを抱かせたのは、わたしたち治療者のほうの態度だったんですよ。…いいじゃないですか、再発したって。…病気に対しても構えがおおらかであるということ自体がとてもたいせつなんです」…

がんばりを緩和するために「再発」があるということ。だからひとりひとりのひとをまずはそのままで百点と見ること。…牧師も医師も「精神障害」に苦しむひとにじぶんの悩みを聴いてもらう、じぶんがほんとうに情けなくなって落ち込んだら、じぶんが気になるひとが立派だったらそれでいいと考える。

 

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 かろうじて声には出さなかったが、心で「そうです、そうですね」と何度もなんども深くうなずいた(たまらず「深い、ふかいなあ…」とつぶやいた)。

 こんども長い引用文でゴメンなさい。いちばん読んでいただきたい言葉だけ赤字にしています。ここだけでいいですからお読みください。

 

①「どっちにコロンだって人間苦労だよね」の一言がいいと思いました。

「病気」は「苦労」のひとつかもしれないが、どのみち生きておればいろいろな「苦労」に遭う。

どんな苦労を選びたい?」もいい。

 そういえば仏教にもありました。

若いゴータマが出家するため何不自由なく育ったわが家(王城)を出ようとしたとき人生には「四苦」があると知る。病・老・死とともに生(まれる=生きること)そのものも「苦悩」にほかならないという。つまり、仏教にとっては生きること自体が「苦労」だということ。べてるの家は仏の教えでもあるのですね。

 

「人を選ぶ」ということの不遜。「人を選ぶ」という態度が、結果として、みずからを「人に選ばれる」存在に貶めてしまう」。

 この言葉も小山直さんという、べてるの家の入所者さんを雇っている会社の社長さんのもの。深いですね。

現実はいい人材を「選ぶ」。人間を「材料」のごとく分解し、その仕事に適しているかどうかを判断する。

「人を選ぶ」ということの不遜」。「理想」といえばそうかもしれない。だけど、そういうことを意識しておきたいと思った。

 

「がんばり」こそが「企業」を危うくする

 私たちの隣に、そういう、脆さを持った人たちが居てくれることの大切さを考えたときに、とっても大事な存在だよね。

 「病気は治すより活かすです」

 まるっきり、現実の会社、社会の「逆」を言っています。それがべてるの家

 弱々しい、めめしくしていると、「ガンバレ」、ときには「負けるな」、「努力が足りん」と叱咤激励の言葉がとんでくる。

 ずっと前に私は「ムリ」について記事にしたことがあります。そのなかで、ちょっと「ムリでも」ガンバれば…やれる、できるということに疑問を呈しました。「ムリ」というのは「道理」を破っていることであり、病気の再発はムリしていることです。

「再発」は「ムリしてガンバっている」ことの兆候。がんばりを緩和するために「再発」があるということ

 

 べてるの理想は、

人はだれでも女か男かに生まれ、子どもの時代があり、家内でか社会に出てかの違いはあるけれど働いて、病気やケガに遭って死ぬこともあれば障害者になることもある。そして老いてゆく(もちろん人によって、次の世代を産むこともあれば産まないこともある)。

 いろんな違いはあるけれど、この世に生れてよかったな、ここまで生きてきてよかったな、とだれもが思える世の中がくればいい、そういう社会をつくりたい、ことだと思った。

 

 

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                               ちりとてちん

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