カメキチの目
「老い」を考えるにあたって、著者は最初に問う。
【引用】
「〈老い〉はほんとうに「問題」なのか
あたりまえの視点
これが「問題」だとは、わたしはおもわない。わたしが、そして身のまわりのひとが、なんらかのかたちでこれを引き受けてゆかざるをえない、ただそれだけのこと…
(老いのさまざまな「問題」)が、これは「課題」ではあっても「問題」ではない。…」
ヒトをふくむ生物の一生において「老いる」というのは、別の言葉でいえば「老化」。
誕生から始まった「生きる」の果の姿で、生理的な自然現象、あたり前の姿だ。
ぷりぷり・もちもちが、シワシワ・ザラザラへ。
だから、どのように「老いる」「老化」してゆくかは「課題」なのだが、「問題」ではない。
つまり、避けようのない与えられた「関門」みたいなものであろう。一人ひとりが生きるという営みのなかで試行錯誤してぶち当たり、突破していかなければならない(というより、意識するかどうかにかかわらず、実際はしている)。
そして、すべていのちあるもの同様、(死して)形は消え、無にかえる。
(「無」といっても人間のばあいはいろいろあって複雑。目には見えずとも魂は残るとか、あっちの世界《天国・地獄》が待っているとか、輪廻でほかなものになるとか、自然物《原子》に分解されるとか…)
「老い」もさまざま。それぞれの「老い」がさまざまな「課題」を抱えていてもそれは「課題」であり、けっして
「問題」ではない。
【引用】
「(「問題」→解決)だが、「課題」はそういうものではない。「課題」は、それと取り組むことそれじたいに大きな意味がある。解決とか正解とかがあるのではなく、それとどう向きあうか、それをどう引き受けるか、そのかたちが、…「課題」への「取り組み」そのものなのである。…
だから問題なのは、それじたい「問題」ではない〈老い〉が、わたしたちの社会では「問題」として浮上してこざるをえなくなった、そのことなのである。ということは逆に、なぜいまの社会では〈老い〉はたとえば介護の「問題」としてしか問題にならないのだろうと問うことでもある。
「介護問題」としてせりだしてきた〈老い〉」
ここで「せりだしてきた〈老い〉」という「介護問題」があるが、著者は社会・政治・経済の専門家ではないので法制度からみた「介護問題」ということにはあまり触れず、哲学者らしく「老いる」ということ、老いた人(広くは「弱い立場の人」)に深く迫る。
つまり、外側からではなく、内側から。
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本には、それ自体がたいへん興味ぶかいことがたくさん述べられるが、長くなるので略し、私が感動さえした重要と思うことだけを述べます。
① 人の一生において、「大人になる」ということは(一般的には)「成熟」に近づくこと。その「成熟」について。
(注 今後②③…と続きますが、一記事ひとつとします)
【引用】
「見えない〈成熟〉のかたち
「大人」になれない社会?
〈経験〉ということで、身をもって知っていること、憶えてきたことをここでは言っているのだが、産業社会では基本的に、ひとが長年かけて培ってきたメチエともいうべき経験知よりも、だれもが訓練でその方法さえ学習すれば使用できるテクノロジー(技術知)が重視される。機械化、自動化、分業化による能率の向上が第一にめざされるからである。…
〈経験〉がその価値を失うということ、それは〈成熟〉が意味を失うということだ。さらに成熟〉が意味を失うということは、「大人」になるということの意味が見えなくなることだ。…
近代社会は、そのような苦痛や損傷をともなう儀礼を野蛮なものとみなし、「大人」(社会の構成メンバー)になるのに必要な知識と作法を合理的に教える場として、学校というものを創った。…
(「情報化社会」のなかで子どもは)つまりは「大人」になる感覚のなかで育つことはなくなっていった。「大人」になるということ、つまりは「成熟する」ということの意味が、とても見えにくくなっていった。…」
さまざまな人生経験の積み重ねは、「経験」のなかみが問われるにしても、(だからとうぜん「成熟」のなかみも問われるかもしれないけれど)その人をつくっているのではないだろうか。「その人をその人たらしめている」のではないでしょうか。
だれにもある一回かぎりの人生。
そこでは、他でもありえたけれど、こうでしかなかった・ありえなかった(結果としての)自分の人生、それをけっして「成熟」とは表現できなくてもこの歳まで生きてきたことを自分もまわり(社会)も祝福し、されるべきではないだろうか。
「技術知」(テクノロジー)というものは「代え」がきくことということであり、代えのきかないその人だけの「一回かぎりの人生」というものの対極にあるんですね。