カメキチの目
⑤ 「べてるの家」の向谷地さん、「ある」の芹沢さん。ご両人の人間を根源的にとらえる理念・思想をかり、それを紡いできた鷲田さんの主張。
そのことを老いの介護という現実にそくして考えるとどういうことがいえるのだろう。
-介護の現場を前にして-
【引用】
「暴力としてのケア
したがってまた、弱い者を助け、支えるケアの現場は、ケアという行為そのものが暴力すれすれの危うさを隠しもつだけではなく、ケアが暴力そのものに反転してしまう可能性を拭うことのできない空間でもある。…
辱めを口にできない被介護者の鬱屈がこのように「攻撃」へと転化することで、「高齢者と介護提供者の関係性には齟齬が生じ、両者の関係はまるでお互いに棘を刺しあうヤマアラシのような状態となる」。
「ヤマアラシのような状態」は、被介護者の受動性だけが引き起こすものではない。介護者のほうもまた、「優しさ」「暖かさ」「倫理」といった、おのれのケアを包む「福祉イデオロギー」によって、誰彼にも等しく「親密に」接しなければならないという、そういう強迫に駆られ、その強迫が被介護者の現実との落差のなかで、暴力へと反転してしまうことがしばしばある。…
逃げ場のないループ
「家族の愛情」というイデオロギー、そしてジェンダー規範、そういう言説とレトリックに依存するかたちで強迫的に「親密性」をみずから作りだそうとしてしまうことで、「なぜ家族がケアを担うのか」が不問に付されることとなり、そうして高齢夫婦においては介護じたいがしばしば痛ましいものになってしまう。「高齢者夫婦の介護にあっては、『やるしかないです。どんなにしたって夫婦ですから』というかたちで堪え忍ぶというかたちで(つまり『家族イデオロギー』の過剰な規範性によって)、『限界ギリギリ』(仲むつまじい夫婦!)まで追いつめられる」ことになるというのだ…
聴くひとの前で話すひとは、聴かれるひとという受動者でもある。聴くということも、無謬性の理念のなかで極限化してはならないということ、である。「いい加減」ということが、だらしないという意味、そしてこれしかないというい絶妙のバランスという意味、そうした対極にある二つの意味のぎりぎりの両立のなかでなりたつときに、「あれでよかったんだ」と後でおもえるケアがなりたつのだろう。「完全なケア」とか、「共感」の要請という、ケアの場での一種の強迫観念がもつ息苦しさも、こうした「いい加減」が視野に入っていないところからくるのだろう…」
ーーーーーーーーーー
暴力としてのケア
暴力(言葉を含めて)。それはきわめて野蛮で下品な、単純な、その場しのぎの、上っ面の「解決」(実のところ、まったくの問題の糊塗・隠ぺい)。
・介護の現場は人間(被介護者)対人間(介護者)の、のっぴきならない場所なので、暴力が起こりやすい。
介護者が真面目に努力すればするほど、自分の思うようにならなかった(うまくコトが進まなかった)とき、被介護者にしてみれば介護者の善意・努力が「ありがた迷惑」になり、それをガマンして受けとっているとき、
両者とも、残すところがないほど(自分を)追いこんでいるので、感情にまかす、パチンとはじける(暴力)しかなくなる。
とくに介護者は、被介護者という「弱い」立ち場にある人から侮辱的な言動をあびせられたら、その挑発に「乗り」やすくなる。被介護者の「土俵」に入りやすくなる。おびき寄せられる。
(これはなにも「老いの介護」に限らない。私は身体障害者ですが、この障害の不快感は自分自身以外には《身体が入れ替わることができるようになれば別ですが》わかりようはないと思っています。そのことは自分以外の人間、他人への「想像力」がどれほどだいじなものかということ)
「いい加減」ということ
・「「いい加減」ということが、だらしないという意味、そしてこれしかないというい絶妙のバランスという意味、そうした対極にある二つの意味のぎりぎりの両立のなかでなりたつときに、「あれでよかったんだ」と後でおもえるケアがなりたつのだろう」
「言い得て妙」という言葉がある。私はここで述べられている文章はまさにそうだと思った。
たぶん、よくいわれる「折りあいをつける」ということ。
「ほどほど」ということ。
でも、これは私のよくする「いい加減」「適当」「ほどほど」…ではなくて、いちおう自分で納得のゆくまで努力、試行錯誤したうえでのこと。
しかし、どこまでやれば「いい加減」「適当」「ほどほど」…なのか?
(その見きわめはむずかしい)
むずかしいけれど、「完璧」「真面目」「努力」…がしばしば自分を追いこみ、心、精神を傷つけてしまいがちだと思うと、自分に寛容であることは何よりもだいじだと思う。
(私の説教することではありませんが)