不 雨 花 猶 落 無 風 絮 自 飛
(あめならずして はななおおつ かぜなくして いとみずからとぶ)
雨が降らなくても花はいつか落ち、風が吹かなくても絮(柳の種で白い毛があり「柳絮」
リュウジョと呼ばれる)は、自ずととんでゆく、ということ。
(グーグル画像より)
自然は変わらないものなどいっさいない、
人間も自然のひとつだから、変わらないようにみえていても刻々と
移りかわっている。
(姿かたちが老いているだけではなく、人生も移りかわっている)
雨が降ったり風が吹かなくても、自ずと(違うのはただ早いか遅いかだけ)いつかは
散るのだ。
(死は必然。生は偶然)
早い遅い、大きい小さい、太い細い、長い短い…そんなことたいしたことではない
比べるな、比較にとらわれるな、ということ。
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禅語は禅の心、精神がきわめて短い言葉、言いかたで表わされている。
いわれ方、表現のされかたはさまざま(焦点のあてどころだけが異なっているだけ)
あっても禅の心、精神はだいたい同じ気がする。
この世界、生きていることは無常だ。
無常なので、有限な「いまここ」をたいせつに生きよう。
そのためには物事にこだわってはいけない。
目ざすところは「無の境地」。
(だいたいそういうようなことをいろいろな言葉で表現している気がします)
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私は50の半ばで障害者となり、パラリンピックの人たちのようなすばらしい根性
をもち、努力をする、少しでも障害を克服しようとする気力は全然なかった。
本質的に怠惰な人間なのだ。
(そういう私でも努力する人たちの姿、物語には惹きこまれる。
けれど、自分にはムリだとはじめからあきらめ、努力・挑戦しようとしない《老いとは関係ない》。
根性なしの怠惰な自分の過去をふり返り、現在の姿《それが「障害者」としても》をみるにつけ、
何でも楽《ラク》な方向に流されていることを自覚する《散歩で歩いたり、立っていることもイヤで
ホントは寝ている姿勢がいちばん楽で好き》。
楽でなくなればそれはそのときのこと。そのときまでは楽天的に生きようと、禅語が思わせてくれた
《もちろん、それは自分にとっての都合のよい解釈、受けとり方だと自覚してます》)
禅語を知り、その言葉をとおして禅の心・精神にふれ、感動し、救われたけれど
もっと若いころ知っていたらどうだっただろう?