カメキチの目
㈱日本航空の旅客機が1985年の盆がはじまるころ、落ちた。
(当時、若かった私は家族づれで実家に盆帰省していたので、驚きとともに鮮明に覚えています。阪神・淡路や東北大震災と同じような大ショックをうけた)
作者は青山透子さん(いまはドキュメンタリー作家ですが、元日航客室乗務員)。 青山さんのブログ
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「日航123便墜落―遺物は真相を語る・天空の星たちへ」公式ブログ
彼女が大きな疑問を持つきっかけとなったのは十五年前とのことで、以来ずっとこの事故・事件を追及されています。
【引用】
「一九八五年の日本は、戦時中でも突発的有事下でもなく、平時のごく平和な日々だったはずだ。…平和な日本の一九八五年八月十二日、まるでナパーム弾に焼かれたごとくの遺体が、なぜ群馬県上野村になければいけなかったのか。
一般人が手に入るはずもない武器燃料で焼かれた可能性をどう説明すればよいのだろうか。成分分析の結果とこれらの写真を見比べながら、私は心の底から湧き出てくる激しい怒りを覚えた。こういう実態を直視せずに、三十三年間もこれを放置し続けたきたことへの強い憤りと当時の関係者への怒り、…
日航123便が墜落したきっかけは過失であったかもしれないが、その後の対応で早急な救助ができたにかかわらず、意図的にしなかったのは重大な不作為の犯罪である。…」
本書の表紙にかけてある帯(宣伝文句)には、次のようにありました。
【引用】
機体と遺体は何を語るのか!?
あの事故の背景に何があったのかー
ミサイル開発、追尾するファントム機、赤い物体、機長の制服の行方…
御巣鷹の尾根で、遺体は何を訴えていたのか、
さらに遺物の化学分析から何が見えてくるのか。
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私がこの本を知り、読むきっかけとなったのは敬愛するブログ読者の「オヤジさん」の記事からです。
520名の命が一瞬にしてうしなわれた世界最大の航空機事故(事件)の真実がたくさんの方々の手によって、30年以上という長大な時間がたっても、いまだに究明され続けている事実を知りました。
「いまだに究明され続けている」ということは、いまだに真実が明らかにされていないということの裏がえし。
この大事故を起こした日航123便というボーイング社のジャンボ機は、以前しりもちをつくという事故を起こし、そのとき「後部圧力隔壁」の修理がきちんとなされなかったことが原因で(その原因究明のうえで流行り言葉のようになった「金属疲労」)それが破れ、バランスをうしない(操縦不可能)、相模湾をフラフラしてから長野と群馬の県境あたりの山に墜落した(それがあとで御巣鷹山とわかった)ということくらいが、私たち一般人の知っていることでした。
というより「報らされた」。
あれから33年という月日が流れたけれど、
いまだに、それ以上のことは報らされてはいません。
(私もこれらの本を読むまでは、単純にとても不幸な事故だった、不運な事故という出来事で終わっていた。毎年、8月12日がくるたびに、テレビで御巣鷹山に慰霊登山される遺族の人たちをみるときくらいしか思いださない。
しかし、本書を読み、これは単なる「とても不幸、不運な事故」ではなく《あるスジには非常に不都合な》、隠しとおさねばならぬことがある意図的な「事件」だという確信が、ムクムクと湧きあがるのを抑えることはできなかった)
当時、「不思議だ」「わからない」「謎」…と頭をかしげなければならなかったことに、遺族の方々をはじめ真相究明を求めるさまざまな立場の人々の動きがあったにもかかわらず、国(政府や自衛隊など)はだんまり、知らぬ存ぜぬを繰りかえしてきた。
「自衛隊の日報」「モリカケ」「厚労省の勤労統計」…みんな過去の「わからなかった」「不明のまま」の出来事として葬りさられるのか。
(グヤシィ…)
日航123便の墜落でナパーム弾に焼かれたごとくのまっ黒こげの死体(遺体)が、なんでまっ黒こげだったのか?不明のままに。