カメキチの目
応 無 所 住 而 生 其 心
「オウ・ム・ショ・ジュウ・ニ・ショウ・ゴ・シン」と、いかにも禅の言葉らしく音よみできますが、
意味は訓よみ、「応(まさに)住する所無(の)うして其(そ)の心を生かすべし」です。
『金剛般若経]という経典にあるというから「オウムショジュニ・ショウゴシン」と(「ナム・アミダブツ…」のようにリズムをつけ)自己暗示するように唱えるのがきき目ありそうです。
説いていることは、「空」や「無」、つまり予断、偏見をもつことなく、またひとところにいつまでも「住む」「とどまる」「執着する」のではない、そんな新鮮な心でいたい。
要は『般若心経』の有名な「色即是空」「空即是色」を具体的な行動にあたっていかした言葉という感じ。
ーーーーーーーーーー
生きているといろいろなことがあり、「喜怒哀楽」にとらわれる。
とらわれまいとして目を瞑っていてもダメである。
つねに自分が周囲にはたらきかける側、一方的な立場にあれば別だが、そんなことはありえない。
周囲(広い意味での「環境」)から常にはたらきかけられる。
いつまでもひとつの感情・考え(それらはすでに「過去」のもの)などにとらわれているのはよそう。
【オマケの話】ーーーーーーーーーー
初めて読んだ禅語の本に次のような噺が載っていました。
若い坊さんたちが修行の旅をしていると川に出た。渡ろうにも橋がこわれており、腰まで水につかって渡るしかない。こわれた橋の前では娘さんが困っている。向こうまで渡りたいのだが…。
ひとりの坊さんが彼女を背おって渡った。
あとで、ほかの坊さんたちが若い女の人を背おってどうだったとかワイワイからかったが、この坊さんはこう言いはなしただけ。
「それはそのときだけのこと、もう忘れた」
「それが人情」といえばそうなんですが、私も自分にとってイイことは長つづきしてほしい(できれば永遠に)、イヤなことは早くおわってほしい。
しかし、こんな禅の心、態度というのに強くひかれました。
ーーーーーーーーーー
道元禅師の「前後裁断」という禅語もこの本に載っていました。これは、過去と未来が火花を散らす『今』一瞬を、前も後も断ち切って、つまりなんらかの想念にとらわれることなくだいじに生きるということで、「応無所住而生其心」に通じます。