カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.9.27 「無功用」

 

        無  功  用

           (む  く  ゆ  う)     

                                                 「碧巌録」より

  

 

『心が晴れる禅の言葉』赤根祥道・著より【引用】

母の胎内からこの世に生まれてくる嬰児の心は、一つの汚れもない。…母親の

乳房にすいついて乳をすいながら、満足すると、すやすやとあどけなく

眠っている。

「嬰児と一般なり、眼耳鼻舌身意有りと雖(いえど)も、而(しか)も六塵を

分別する能(あた)わず、蓋(けだ)し無功用なればなり」(「碧巌録」)

もちろん、嬰児も人間だから、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感受性は

しっかりとそなえている。しかし、その作用を使って、価値を判断しようとは

しないのだ。

地位があがり、権力をもつと、人は我を出してくる。人と人とを差別し始める。

悪臭がまわりにただよい始める。…

                             ふーむ  らかんさん

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 これとよく似た禅語に「無功徳」というのがある。

何かの「善行」しても、功徳を期待してはならない

いう教え。

(「功徳」=「ご利益」や「見返り」など)

 

「善行」といっても他人に施すものとは限らない。

「修行」「精進」など自分ための行いもそう。

 行いのうちには「祈り」だって含まれる。祈るのは、

他人のときもあれば自分のためのときもあろう。

(「念ずれば花ひらく」わけではない。真摯な祈りが通じないことはふつうだ。

しかし、こう考えることはできる。望む結果を期待してはいけないが、「善行」

「祈り」などは心の平穏を与えてくれる。心が安らかになる。

そのことがすでに自分にとっては「ご利益」「見返り」になっている、と)

 

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「無功用」は「徳」が「用」に変わっただけだが、

似たような考え方である。

「用」とは「用いる」であり「はたらき」だが、

つまり「役に立つ」こと。

(「無用の用」という言葉もあるように、それは「役に立たない」ということが

「役に立っていること」)

「無功用」は、役に立つとか立たないにこだわらない

という教えなのだろう。

 

 むずかしいことだが、そうありたい。



 

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                           ちりとてちん 

 
 
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