無 功 用
(む く ゆ う)
「碧巌録」より
『心が晴れる禅の言葉』赤根祥道・著より【引用】
母の胎内からこの世に生まれてくる嬰児の心は、一つの汚れもない。…母親の
乳房にすいついて乳をすいながら、満足すると、すやすやとあどけなく
眠っている。
「嬰児と一般なり、眼耳鼻舌身意有りと雖(いえど)も、而(しか)も六塵を
分別する能(あた)わず、蓋(けだ)し無功用なればなり」(「碧巌録」)
もちろん、嬰児も人間だから、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感受性は
しっかりとそなえている。しかし、その作用を使って、価値を判断しようとは
しないのだ。
地位があがり、権力をもつと、人は我を出してくる。人と人とを差別し始める。
悪臭がまわりにただよい始める。…
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これとよく似た禅語に「無功徳」というのがある。
何かの「善行」しても、功徳を期待してはならない
という教え。
(「功徳」=「ご利益」や「見返り」など)
「善行」といっても他人に施すものとは限らない。
「修行」「精進」など自分ための行いもそう。
行いのうちには「祈り」だって含まれる。祈るのは、
他人のときもあれば自分のためのときもあろう。
(「念ずれば花ひらく」わけではない。真摯な祈りが通じないことはふつうだ。
しかし、こう考えることはできる。望む結果を期待してはいけないが、「善行」
「祈り」などは心の平穏を与えてくれる。心が安らかになる。
そのことがすでに自分にとっては「ご利益」「見返り」になっている、と)
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「無功用」は「徳」が「用」に変わっただけだが、
似たような考え方である。
「用」とは「用いる」であり「はたらき」だが、
つまり「役に立つ」こと。
(「無用の用」という言葉もあるように、それは「役に立たない」ということが
「役に立っていること」)
「無功用」は、役に立つとか立たないにこだわらない
という教えなのだろう。
むずかしいことだが、そうありたい。