『仏教思想の発見-仏教的ものの見方-』 森 章司 著
「仏教的ものの見方」という副題にとても惹かれて読んだ。
実家は浄土真宗だけど、私が仏教に目覚めたのは、親鸞ではない。
(後に有名な「悪人正機説」という教えを知り、大きな衝撃を受けた)
突然の事故で障害者になり、「これからどういう気もちで生きようか?」と迷い
悩んでいたとき、本屋でたまたま手にとった禅語の文庫本からだった。
初めは禅語に凝縮された禅の教えだったが、そのうち仏教全般になった。
仏の教えだ。
仏教のどの本も、ためになることがいっぱいあった。
ところが、どれほど読んでいる最中、読後は感激していても、
悲しいかな私はすぐ忘れる。
忘れるから、また読みたくなる。
(「ためになる」と書きましたが、私はこれまで人生のためになる教訓、教えのようなもので
自分を励まし支えてきた。これからもそうするつもりです)
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この本で初めて知り、思わず膝をたたくほど深く納得のいく教えがあった。
(他の本でも同じことが述べられていたのかもしれない。
が、そのときはよく理解できていなかったのだろう。
まったく同じ経験でも、時と場が異なれば、違った受け止め方をし、印象も異なることがある。
読書もいっしょだと思う)
① 「業」について
② 「「あるがまま」を「あるがまま」に見る」ということ
他にも紹介したいことが多いのですが、この二つのことだけを書きます。
(今日は①を)
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① 業
「善因楽果・悪因苦果という業の関係を知りうると思うのは私たちの思い上がりで、
業がどのような果報をとるかということは極めて霊妙…これを思考してはならない。
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「善因楽果・悪因苦果という業の関係を知りうると思うのは私たちの思い上がり…
業がどのような果報をとるかということは極めて霊妙…思考してはならない」
スゴイことがいわれている。
「業」ということですぐに頭に浮かぶのは、私なら「自業自得」だ。
(ちなみにネット検索では「自分でした(悪い)事のむくいを自分の身に受けること」
よいときにはいわれず、悪いときにいわれる)
引用文の前には、
「つまるところ…よい行いを行いなさい、そうすれば幸せになりますよ、
悪い行いをつつしみなさい、もし悪い行いを行えば苦しまなければならないが、
それは自分が蒔いた種であるから、その責任を他人に転嫁してはなりませんよ、
という以外にはないのである」
でも、
「自分が蒔いた種であるから」「悪い行いを行えば苦しまなければならない」が、
善行を施したからといって、よいことがあるとは限らない。
「不公平だ、これが仏のすることか」「何という無慈悲…」と文句を言いたくなる
が、不平不満を抱いてはならないという。
1+1=2というような数学的な理屈からすると、「善因楽果・悪因苦果」で
なければならないはずだけど、人生は数学ではない。
それに、何が真に「楽果」で「苦果」なのか?
人間の浅知恵でわかるはずはない。
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「結果、結果…」と成果を早急に求める現代の風潮。
近視眼的な、目に見える結果にこだわるいまの空気。
人間は謙虚でなければならない。
(ドラマにもよく出るセリフだが、人は往々にして「私は何も悪いことしないのに何で?…」と
被害者が悲嘆にくれる。
私の場合は事件ではなく事故だったけれど、「何も悪いことしないのに」障害者になった)
「しょせん、人間のすること…考えること」といういい方がある。
私たち人間にできることは、自分が神仏になることじゃなく、
神仏のような大いなるものを想像し、自分を律することだけだろうか…。