カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.6.5 『ナバホへの旅 たましいの風景』②

          カメキチの目

 

 

『ナバホへの旅 たましいの風景』 河合隼雄 ・著の2回目。 

 

 コロナ後の世界があれこれ言われだしている今、

アメリ先住民族訪ね「たましいの風景」に出あえた

河合隼雄さん著作から学ぶものはとても大きい気がする。

  

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【引用】

スチュアートさんの言葉で印象的だったのは、「医療が工業化している」

ということであった。工業では上等の部品を沢山早くつくって、

上手に組み合わせると効率のよい機械ができる。

そして、機械が壊れると部品を取り換えるとよいのだ。

このような考え方が医療でも強くなり、すべてが「効率よく」なるが、

人間性は失われてゆく。

工業化された医療は、結果に重点を置きすぎる。

つまり、治ったか治らなかったかということにこだわる。

しかし、医療において、「過程」が大切なこともあるのを忘れてはならないと、

スチュアートさんは言うのである。

つまり、治らなくても、

その患者が死に至る「過程」をどのように歩んでいったかが大切なのである。

これは、高齢者のケアなど、「ケア」を大切にする医療において

大いに考えねばならないことだ。

 

ここに「白人の」として書いたことは、ヨーロッパ近代の考えを受けいれている。

現代の日本人にとっても同様のことである。

つまり、文化や社会は「進歩」する、あるいは、するべきであると考えている。

確かに、人類の歴史を見て、人間の社会が「進歩」してきたとは言えるだろう。

その考えに従って、現在もわれわれは「先進国」などという表現を用いている。

その「進歩」に貢献しようとして、あるいは、何とか「出し抜こう」として

努力している人は沢山いる。

しかし、このように「進歩」ということを評価するようになったのは、

ヨーロッパ近代になってからのことである。

 

血のつながりを大切にするのは自然に生じることと述べたが、

人と人とのつながりのほかに、人と自然のつながりということがある。

これも、人と自然と、というように対置的に考えること自体、

西洋近代の発想の結果であり、西洋近代の言う自然(nature)などという概念は、

わが国にはなかった。

 

(注:字はこっちでしました) 

 

上のことを、あえてつづめて言うと、

①「効率」「効率」と言わず

②「過程」をたいせつに扱い

③「進歩」を問い

④「自然」とのつながりをだいじにする

 

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 世界は大きく変化。

いまの老人は同時代を生きてきて、誰もが強く実感しているのではないでしょうか

東西冷戦が終結し、経済はグローバル化し、生活「格差」はいっそう増大し、

地球温暖化のすさまじい進行、大規模自然災害の頻発、エネルギー資源の枯渇…

 科学技術の急速な進展。

スマホをはじめIT技術目の覚めるような進歩、「解析」から「編集」の段階に

進もうとしているゲノムをはじめとするイオ技術の発展

 

 これらを前にして、人間社会は変わらざるを得ない

はずなのに、生きのこるための社会が問われている

はずなのに、知らんぷりを決め込んでいる。

 いまだにズルズルと経済成長第一主義、GDP第一の

道を突っ走っている。

 

コロナ禍のこと、私はこう思う。

 ↓

 人類は自らの意思では立ちどまれないので、

神さまが「これでいいのか、人間よ!」と、

いやおうなく恐れ(畏れ)おののき、立ちどまらざるを

得ないように、コロナウイルスまかれたにちがい

ない。

神様が発生源なのだ。中国であるのかないのか(「科学的に」細かいことに

こだわるのはたいせつかもしれないが)、そんなことはいまはどっちでもいい。

 

これほどまでに大きな影響を受けながらも、恐怖体験しながらも、なおもたいして

これまでと変わらないようだったら、ウィルスのような他の生きものによってか

(ウィルスなどVS人間)、戦争のような人間同士の殺しあい(人間VS人間)

によってかはわからないけれど、人類は早晩ほろびるに違いない。

(2016.9.16から2カ月近く、『心配してもしかたない?未来のこと』という本を

読んでの連続記事を書きましたが、こんどのコロナ騒ぎでその本を思いだした)

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 私は入院体験がある。

 幸い退院できたが、ウン悪く死んだとして

(生きてもどったから言える「先生看護師さんにとても

よくしてもらい…」という満足した気もちがあれば

死んでもよいと思った。

 「生死」という結果より、先生や看護師さんとの心の触れあい、つまり「過程」

のたいせつさを痛感した。

(先生や看護師さん同様、感謝の気もちは「効率よく」痛みをやわらげ、

取りのぞいてくれるを開発し作ってくれた人々、薬剤師さんにもあります)

「効率」ということもたいせつなのだが、「過程」というのはそれをも含む、

より大きな意味を持っているのだと思う。

 

「進歩」。

「何の進歩?」

「何にとっての進歩?」

 

 歩けば(走っても)前に進む。

 歩いているうちは考えられる。反省できる。

まだ間にあう。

 走っていては(走ることに夢中なので)考えられない。

反省できない

走りなら、後ろへさがることはむずかしいけれど、歩きなら、まだ後ろへ

さがられる、戻れる。もちろん立ちどまられる。

20世紀の終わりごろからの科学技術の急激な進歩は、すでに「走っている」状態

なのかもしれないが、引きかえすのはムリでも、立ちどまられる。

 

海の向こうの出来事とはいえ心配になる。

抗議運動が暴動になり、鎮圧のために軍隊が動員され、取り返しのつかない事態が

生じたら…

 

民主的な選挙という手続きによってトランプという人物をトップに据えたアメリ

一国の大統領があれほど権力を持ち行使できるとは、その怖さを知らなかった。

(一時はやった「品格」という言葉を思いだした《品格のない私の言うことでは

ないが、彼よりはマシだと思うので》)

彼の数々のキレた姿が教えてくれた。今も次期大統領選に勝つことしか眼中にない。

海の向こうの出来事とはいえ恐ろしい。

 

 

 

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                         ちりとてちん

 

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