カメキチの目
ツレは徳永進さんの超大ファン。
徳永進さんという方は鳥取で「野の花診療所」という地域密着の診療所を
2001年に開設され、終末期医療に取りくんでおられるお医者さん。
こんな医師に看取ってもらえば幸せです。
(いや死んで幸せでもしかたないか)
その徳永医師の本。最新のものを彼女が図書館で借りてきた。
『まぁるい死』という。
エッセイ集のようなものだった。そこから三つ。
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① 「寄り添う」
(親友の精神科クリニック医師の浜田晋さんがあるとき)「寄りそう」
って言葉はきれい過ぎて使うのが少し気恥ずかしい、
それよりか「そばにいてやろう」のほうがイイと
言われたことが徳永さんの心に印象深く残っていた。
「寄りそう」。私もよく使う。世間でもよく使われる
「共感」「共存」「多様性」「絆」「やさしさ」「愛」「平和」「仲よし」…
みんなたいせつにしなければならない人間の資質、理念なのだが、私もそれらの
言葉を使うときはちょっと気恥ずかしい。
(「お前にいわれたくないや」と誰かに呟かれている気がしてくる)
言葉に酔ってしまい、自分がホントにそんな人間になったかのような勘違いを
しそうになってくる。
(政治家も、繰り返しくりかえし美辞麗句を声を大に叫んでいたら、美辞麗句の
自分と現実のウソつき自分とが混ざり、重なってどっちがホンモノかわからなく
なるのではなかろうか)
② 「安楽死かあ」 「大切なことは何か」
ここは本から引用します。
【引用】
「安楽死かあ」
「安楽死」は「(安)らかで」「(楽)な」をはさんだサンドウィッチ語にした
方がいいのに、と思うことがある。「安らかで楽な死」。硬い言葉は暴走する。
時代は進歩し、人々は言葉に縛られるようになった。例えば「告知」「安楽死」。
それらの近代語に助けられて、腑に落ちる死を人々は迎えられるようになったか?
そうとは言えまい。
言葉以前からある、死に向かう生命の底力とそのそばで死を見つめるもうひとつの
生命の底力で死は引き継がれてきたし、引き継がれていると思う。
大切なことは何か
大切なことは、病者の横にただ居るだけ。
手のひらが背をさする。表情に悲しみ、戸惑い、諦めが漂う。目を閉じる。
そっと手を握る。時の流れに共に乗る、深い無言と共に。…
積極的な治療、看護に患者さん、家族、医療者の心が占有され過ぎると、
却って世界は狭くなると思う。
太古からあった死の看取りを取り戻すこと。…
ただ死を見る、その力。
(注:()の追加、赤字はこっちでしました)
最後の「ただ死を見る、その力」という言葉に
心が震えた。
徳永さんが、「野の花診療所」をつくったのは、
その力をただただ信じられたからだと思う。
仏教は、人は「生・老・病・死」の四苦を誰も逃れることはできないと説く。
逃れられないものからは、上手にそれとつき合い、つき合いを終える、
「太古からあった死の看取り」
とてもだいじだと思った。
人間も自然、生きものの一つだから必ず死ぬ。その死を野の花のように穏やかな
納得できるものにしようとして、徳永さんは「野の花診療所」をつくられた。
③ あかり
ここも本から引用します。
【引用】
あかり
浜田晋さんの文章にこんなのがあった。心病む患者さんの台詞だ。
「先生、浜田クリニックという看板のあかり、夜中も消さないでください。
あれを見るとほっとするんだ」。…
「な、徳永。人は薬だけじゃなく、何でもないような何かで、不安が和らぐって、
あるんだ!」。