カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.7.10 野の花診療所

         カメキチの目

 

 

ツレは徳永進さんの超大ファン。

徳永進さんという方は鳥取で「野の花診療所」という地域密着の診療所を

2001年に開設され、終末期医療に取りくんでおられるお医者さん。

こんな医師に看取ってもらえば幸せです。

(いや死んで幸せでもしかたないか)

 

その徳永医師の本。最新のものを彼女が図書館で借りてきた。

『まぁるい死』という。

エッセイ集のようなものだった。そこから三つ。

 

ーーーーーーーーーー 

① 「寄り添う」

(親友の精神科クリニック医師の浜田晋さんがあるとき)「寄りそう」

って言葉はきれい過ぎて使うのが少し気恥ずかしい、

それよりか「そばにいてやろう」のほうがイイ

言われたことが徳永さんの心に印象深く残っていた。

 

「寄りそう」。私もよく使う。世間でもよく使われる

「共感」「共存」「多様性」「絆」「やさしさ」「愛」「平和」「仲よし」…

みんなたいせつにしなければならない人間の資質、理念なのだが、私もそれらの

言葉を使うときはちょっと気恥ずかしい。

(「お前にいわれたくないや」と誰かに呟かれている気がしてくる)

言葉に酔ってしまい、自分がホントにそんな人間になったかのような勘違いを

しそうになってくる。

(政治家も、繰り返しくりかえし美辞麗句を声を大に叫んでいたら、美辞麗句の

自分と現実のウソつき自分とが混ざり、重なってどっちがホンモノかわからなく

なるのではなかろうか)

 

② 「安楽死かあ」 「大切なことは何か」

ここは本から引用します。 

【引用】 

安楽死かあ」

 

安楽死」は「(安)らかで」「(楽)な」をはさんだサンドウィッチ語にした

方がいいのに、と思うことがある。「安らかで楽な死」。硬い言葉は暴走する。

時代は進歩し、人々は言葉に縛られるようになった。例えば「告知」「安楽死」。

それらの近代語に助けられて、腑に落ちる死を人々は迎えられるようになったか?

そうとは言えまい。

言葉以前からある、死に向かう生命の底力とそのそばで死を見つめるもうひとつの

生命の底力で死は引き継がれてきたし、引き継がれていると思う。

 

大切なことは何か

 

大切なことは、病者の横にただ居るだけ。

手のひらが背をさする。表情に悲しみ、戸惑い、諦めが漂う。目を閉じる。

そっと手を握る。時の流れに共に乗る、深い無言と共に。…

積極的な治療、看護に患者さん、家族、医療者の心が占有され過ぎると、

却って世界は狭くなると思う。

太古からあった死の看取りを取り戻すこと。…

ただ死を見る、その力

 

(注:()の追加、字はこっちでしました)

 

 最後の「ただ死を見る、その力」という言葉に

心が震えた。

 徳永さんが、「野の花診療所」をつくったのは、

その力をただただ信じられたからだと思う。

                f:id:kame710:20200610091036j:plain

 

 

仏教は、人は「生・老・病・死」の四苦を誰も逃れることはできないと説く。

逃れられないものからは、上手にそれとつき合い、つき合いを終える

太古からあった死の看取り

とてもだいじだと思った。 

 

人間も自然、生きものの一つだから必ず死ぬ。その死を野の花のように穏やかな

納得できるものにしようとして、徳永さんは「野の花診療所」をつくられた。

                     
 ③ あかり

ここも本から引用します。 

【引用】 

あかり

 

浜田晋さんの文章にこんなのがあった。心病む患者さんの台詞だ。

「先生、浜田クリニックという看板のあかり、夜中も消さないでください。

あれを見るとほっとするんだ」。…

「な、徳永。人は薬だけじゃなく、何でもないような何かで、不安が和らぐって、

あるんだ!」。

 

 

 

                 f:id:kame710:20171029114701j:plain 

                           ちりとてちん

<