カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.1.21 「多様性」ということ

          カメキチの目

 

 

 少し前に、私たちが当然のように思っていること、

信じこんでいること、前提としていることに対して

そうではない(否定するわけではない)別な考え方や世界が

ある、世の中は多様性に満ちていると想像してみる

ことのたいせつさを書いた。

 

「多様性」の尊重とは、世界はさまざまであることを

理解し、そういうさまざまな「存在」を認めること。

 でも、それだけではない。

 ものごとのとらえ方・視点はいろいろあること、

そういうトンボのような複眼を持たなければならない

 (「多様性の尊重」ということは、正解《真理や真実》がいくつも存在するのか

一つだけかもしれないということとは関係ない、と私は思っている。

もっといえば、「正しい・正しくない」という次元の問題ではないとも思う)

 

 そのことが歳をとってからの10数年、とくに仕事を

やめて読書に没頭できるようになったこの何年、

どの本にも述べられていた。

(ときどきみるテレビ番組でも。

「本やテレビなどでよくいわれるから」ということではなく、

自分の人生をふり返って痛感します) 

 

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 最近、そのことをあらためて強く感じさせたことが

三つあった。

 

① 新しいNHK大河ドラマ明智光秀

 エッ、光秀が「多様性」?

 明智光秀という人物を解剖し、さまざまな面から

みてみよう、私たちが学校で習った、世間で「常識」

といわれている歴史にも別な目を向けてみよう

ということ。 

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 光秀は「本能寺の変」というあまりにドラマチック

な事件の張本人ということで、「謀反」「裏切り」の

権化のように、そればかりがクローズアップされ、

人気はいまひとつ…

(その点で信長・秀吉・家康に遠く及ばない。彼らは天下統一の権力者。

学校の歴史教育は権力をとった者《勝者》の立場を「歴史の必然」のように描き、

権力者=英雄あつかいなので、光秀は信長という英雄を倒した反逆者になる

 

 が、それはオカシイと私は思う。 

(権力云々というたいそうなことを言わなくても、信長の寝ているところを襲う

という「卑怯な行為」をした。その一事をもって光秀=卑劣。

私も、大河ドラマになる今のいままで、光秀のイメージは悪かった。

それを大河は見直してみようとする《NHKのドラマづくりはいいと私は思う》)

 

 光秀のことは不明な点が多く、人物像がよくは

わからないらしい。

 わからないからこそ、未知の部分が多いからこそ、

「こうあってほしい」という人間像を創造でき、

つくるのは楽しいのだろう。

 

 先日、NHKテレビで主役の長谷川博己さんが

演じたい光秀像を話しておられたのを聞いた。

「長谷川光秀」は私たちに植えつけられた光秀像を

壊してくれるに違いない。

 彼は、みんなに好かれる明智光秀演じたい、

という意味のことをおっしゃっていた。

 

② 少なくと600万人も殺されたナチスユダヤ

大虐殺という歴史的な事実。

 私たちはどう受けとめればいいのか?と、

人間・社会を深く考えたハンナ・アーレント

述べていた。 

 

 アーレントは、「複数性」「多元性」「多様性」は

人間性の最大の特性であると言う。

(引用は仲正昌樹著『不自由論』から)

【引用】

文化的・”血縁“的に同質な集団としての「国民」の「同一性=アイデンティティ

を「国家」統合の原理にしようとしてきたヨーロッパ諸国は、必然的に、

自己/他者の間に明確な境界線を引くことを迫られた。

自分たちとは違うものを際立たせることで、自分たちの「同一性」を確認すること

が必要になったわけである。そのためのターゲットになったのが、

キリスト教世界”全体“にとっての他者「ユダヤ人」であった。

こうした「同一性」の論理が”自然と“圧倒的に強くなった体制においては、

人々は独自の判断を止めて、自発的に、となり自らの”自由意志“に基づいて、

「全体」の目的に「同調」するようになる。

自分の利益を自分の責任で孤独に追及するよりも、

(自分をその一部として包んでくれる)「全体」の利益に合わせた方が楽である。

このように、「個人の自由」と「体制への同調」が-少なくとも形のうえでは-

両立するという意味で、「全体主義」は通常の独裁体制とは異なるわけである。

近代的な主体性を備えた人間にとって最も本質的な価値である「自由」を

自ら投げ捨てて、「全体」と「同化」するように仕向けるからこそ、

全体主義は危険なのである。…

 

(ヒトの動物的本能に直接働きかける「全体主義」)

ナチスが映画やラジオなどの媒体を通して、「害虫」であるユダヤ人がドイツの

社会・経済を侵蝕しているというイメージを流布したのに反応して、

ドイツ国民の多くが感情的な「反ユダヤ主義」へと駆り立てられた…

全体主義体制に「同調」した人々は、…没個性化していき、暴力支配のモードに…

 

③ NHKB1スペシャルという番組で、ハラリという

歴史家がホモサピエンス全史』という自著で自分の

述べたかったことをとてもわかりやすく、聞き出し

役の池上彰さん相手に話しておられた。

 

 ハラリさん曰く(そういう意味のことだと私は解釈しました)

 これまでの歴史は「勝者」(権力者・グループ・集団)

立場から編集され、書かれた。

 それもアリだが、また違った目もある。

 人間の生きる目的、目ざすところは「幸せ」である

 なのに、これほど科学技術が発達した現代(科学技術は

未来に向けて永遠に続く。で、人間はそのうちホモ・デウス《「神のヒト」、

「神さま」》になるとハラリさんは言う)でも、

「幸せが実現した」「満たされた」ということはない

 つまり、幸せでない人々が大勢いる。

 

 そこでハラリさんは新たな歴史のモノサシを

提示する。

 基準の尺度は「科学技術の進歩」、つまり「便利・

快適」「効率」に代わって、「幸せ」をおく。

 

 幸せは「感じる」ものだから、私たち一人

ひとりが多様な仕方で、さまざまな形のものを

掴める。

(幸せといえば私はブータンのことを思いだした)

 

 

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                            ちりとてちん

 

 

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