カメキチの目
少し前に、私たちが当然のように思っていること、
信じこんでいること、前提としていることに対して
そうではない(否定するわけではない)別な考え方や世界が
ある、世の中は多様性に満ちていると想像してみる
ことのたいせつさを書いた。
「多様性」の尊重とは、世界はさまざまであることを
理解し、そういうさまざまな「存在」を認めること。
でも、それだけではない。
ものごとのとらえ方・視点はいろいろあること、
そういうトンボのような複眼を持たなければならない
(「多様性の尊重」ということは、正解《真理や真実》がいくつも存在するのか
一つだけかもしれないということとは関係ない、と私は思っている。
もっといえば、「正しい・正しくない」という次元の問題ではないとも思う)
そのことが歳をとってからの10数年、とくに仕事を
やめて読書に没頭できるようになったこの何年、
どの本にも述べられていた。
(ときどきみるテレビ番組でも。
「本やテレビなどでよくいわれるから」ということではなく、
自分の人生をふり返って痛感します)
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最近、そのことをあらためて強く感じさせたことが
三つあった。
エッ、光秀が「多様性」?
明智光秀という人物を解剖し、さまざまな面から
みてみよう、私たちが学校で習った、世間で「常識」
といわれている歴史にも別な目を向けてみよう
ということ。
光秀は「本能寺の変」というあまりにドラマチック
な事件の張本人ということで、「謀反」「裏切り」の
権化のように、そればかりがクローズアップされ、
人気はいまひとつ…
(その点で信長・秀吉・家康に遠く及ばない。彼らは天下統一の権力者。
学校の歴史教育は権力をとった者《勝者》の立場を「歴史の必然」のように描き、
権力者=英雄あつかいなので、光秀は信長という英雄を倒した反逆者になる)
が、それはオカシイと私は思う。
(権力云々というたいそうなことを言わなくても、信長の寝ているところを襲う
という「卑怯な行為」をした。その一事をもって光秀=卑劣。
私も、大河ドラマになる今のいままで、光秀のイメージは悪かった。
それを大河は見直してみようとする《NHKのドラマづくりはいいと私は思う》)
光秀のことは不明な点が多く、人物像がよくは
わからないらしい。
わからないからこそ、未知の部分が多いからこそ、
「こうあってほしい」という人間像を創造でき、
つくるのは楽しいのだろう。
演じたい光秀像を話しておられたのを聞いた。
「長谷川光秀」は私たちに植えつけられた光秀像を
壊してくれるに違いない。
彼は、みんなに好かれる明智光秀を演じたい、
という意味のことをおっしゃっていた。
大虐殺という歴史的な事実。
私たちはどう受けとめればいいのか?と、
人間・社会を深く考えたハンナ・アーレントが
述べていた。
アーレントは、「複数性」「多元性」「多様性」は
人間性の最大の特性であると言う。
(引用は仲正昌樹著『不自由論』から)
【引用】
文化的・”血縁“的に同質な集団としての「国民」の「同一性=アイデンティティ」
を「国家」統合の原理にしようとしてきたヨーロッパ諸国は、必然的に、
自己/他者の間に明確な境界線を引くことを迫られた。
自分たちとは違うものを際立たせることで、自分たちの「同一性」を確認すること
が必要になったわけである。そのためのターゲットになったのが、
こうした「同一性」の論理が”自然と“圧倒的に強くなった体制においては、
人々は独自の判断を止めて、自発的に、となり自らの”自由意志“に基づいて、
「全体」の目的に「同調」するようになる。
自分の利益を自分の責任で孤独に追及するよりも、
(自分をその一部として包んでくれる)「全体」の利益に合わせた方が楽である。
このように、「個人の自由」と「体制への同調」が-少なくとも形のうえでは-
両立するという意味で、「全体主義」は通常の独裁体制とは異なるわけである。
近代的な主体性を備えた人間にとって最も本質的な価値である「自由」を
自ら投げ捨てて、「全体」と「同化」するように仕向けるからこそ、
全体主義は危険なのである。…
(ヒトの動物的本能に直接働きかける「全体主義」)
ナチスが映画やラジオなどの媒体を通して、「害虫」であるユダヤ人がドイツの
社会・経済を侵蝕しているというイメージを流布したのに反応して、
ドイツ国民の多くが感情的な「反ユダヤ主義」へと駆り立てられた…
全体主義体制に「同調」した人々は、…没個性化していき、暴力支配のモードに…
③ NHKB1スペシャルという番組で、ハラリという
歴史家が『ホモサピエンス全史』という自著で自分の
述べたかったことをとてもわかりやすく、聞き出し
役の池上彰さん相手に話しておられた。
ハラリさん曰く(そういう意味のことだと私は解釈しました)、
これまでの歴史は「勝者」(権力者・グループ・集団)の
立場から編集され、書かれた。
それもアリだが、また違った目もある。
人間の生きる目的、目ざすところは「幸せ」である
なのに、これほど科学技術が発達した現代(科学技術は
未来に向けて永遠に続く。で、人間はそのうちホモ・デウス《「神のヒト」、
「神さま」》になるとハラリさんは言う)でも、
「幸せが実現した」「満たされた」ということはない
つまり、幸せでない人々が大勢いる。
そこでハラリさんは新たな歴史のモノサシを
提示する。
基準の尺度は「科学技術の進歩」、つまり「便利・
快適」「効率」に代わって、「幸せ」をおく。
幸せは「感じる」ものだから、私たち一人
ひとりが多様な仕方で、さまざまな形のものを
掴める。
(幸せといえば私はブータンのことを思いだした)