柳田邦男さんの『言葉が立ち上がる時』の3回目も、「老い」に深く関係します。
話題は二つ。
(私はよく老いのことを書きます。
実際に自分が老境に入らないとわからないことがいっぱい起きますが、
それはわからないくらいのスピードで徐々に起きる。
その中には「こういうことだったのか…」とうなずいたこともあり、若い人たちに
「そう感じ、思い、考えているジジイもいるんだな」と伝えたいこともあります)
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① 「素朴な言葉の奥行き」
ゆっくりできる自分の時間をもち、好きなことを
楽しんだり(現状では退職しない限り実現はむずかしい)、
逆に病気に罹ったりケガをし、障害をもったりして、
人は(それまでよりも)「いのちの精神性」を上昇させる。
「いのちの精神性」は本人が死んでも、後を生きる人
の人生を膨らませる種になることも少なくない。
→これを「死後生」と呼んでいいと思う(と、著者は言う)
【引用】
(著者は、訪問診療の医師が独り暮らしの88歳の女性患者を訪ねたときの手記を
読んだときの感想を述べる)
「素朴な言葉の奥行き
〈思案を促す「死後生」〉
(その女性患者が死んで)
診療回数は少なくても、患者の実存の形は、時として医療者の心にこんなにも
鮮やかな「死後生」となって生き続けることもあるのかと、私は感銘…。
(まだ存命中だったころの訪問診療で)
それはみなモノの世界なのだが、その情景のなかにベッドに臥した老女の姿が
入ると、途端にモノたちが単なるモノではなくなり、彼女の生き方の心模様を
表現する大道具、小道具としての息づかいさえ感じられるようになる。…」
交わす言葉は素朴で、しかも数は少なくても、
魂のこめられた言葉の交流(「言霊」という言葉もある)、
そういう関係というものはちゃんと在るのだ。
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② 「行間の豊かさ」
柳田さんは、言葉が平凡な日常語であっても、それが節目ともいえるような人生
場面で発せられると、
【引用】「人生物語の文脈のなかに挿入されると、深遠な哲学用語に勝るとも
劣らない痛切な「意味」を響かせる」と述べられる。
「ああ…今日も暑うなるぞ…」
本のなかで著者は、やまだようこさん(大学教師)の著作に、小津安二郎監督の
名作映画『東京物語』の有名なシーン(長年連れ添った老妻を前日に亡くした夫が
早朝、海岸に出て朝日を浴びながら言う「ああ…今日も暑うなるぞ…」)について
言及し、「なぜ、生死の境界で天気が語られるか」と書かれてあることに深く共感
する。
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①も②も、心がこもった言葉、会話というのは「言葉が立ち上がってくる」ものだ
ということを強く感じた。
(いまではテレビが主導し、従来からの「漫才」などとは別の「お笑い」という
広い芸能が作られた気がしている。
言葉、話術でなく、人を叩いたりバカにした言葉を発したりして視聴者の気をひき
視聴者が顔を引きつらせ苦虫をつぶしながらも、ともかく笑わさせればいいとして
いるかのようだ。そういうのは私の場合には「うるさい」とだけしか感じられず、
スイッチを消す)
人が愛しくなる。
(『言葉が立ち上がる時』は、そういう気もちにさせてくれる本でした)
〈オマケ〉
またテレビの話で恐縮です。
いくつかドラマを観ている。今いちばん好きなのはNHKの『赤ひげ』。
(『赤ひげ』の詳しい説明はウィキペディアなどを参照してください)
物語のほとんどは、一生懸命生きていても病気やケガしても医者にもかかれない
貧乏長屋に住んでいる江戸庶民と、「小石川養生所」という診療所の「赤ひげ」と
陰で呼ばれている所長の医者や部下の若い医者たちとの交流(?)を描いている。
一回一話の人情話に、「素朴な言葉の奥行き」「行間の豊かさ」を強く感じ、
感動することうけ合いです。