カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.7.27 唯識とは何か?(前)

以下の引用文は、引用文そのものは青字「」・〈〉・()・→・太字太字はこっちでしたもの)

 

本題に入る前に。

■ ちょうど同じころ『宗教とはなにか』というのを読んだ。

宗教とは「大いなるものへの畏怖の心」が、原始、古代、いわゆる「未開社会」

近代を問わず、根本的な出発点として共通しているあった。

畏れ、慄きの感情をともなった崇める気もちのようなもの。

「大いなるもの」とは、宇宙や大自然という空間的な(いちおうは)目に見える、

感じられるものだけではなく、「あの人に起きて、私には起きなかった」

「彼(彼女)は死んで、私は生きのこった」というような、決定的な人生の偶然も

含む。

(要するに理不尽なこと。科学でいまだ解明されていないこと。

 

話が変わりますが、宗教から話題の東京オリパラのことが連想されました。 

オリンピックは世界的なものだが、「大いなるもの」ではない。

グローバルな行事だが、人間が始めたものだからするかしないか決められる。

自然のことではありません。

オリンピックのいまのあり方、姿が原点から逸脱したと思えばやめればよいと思う。

きわめて簡単なこと。 ついでに書きます。

                     ↓

手垢にまみれた商業主義に加え、コロナ禍。私は開催に反対だけど、同じような声が多くても開会式が

行われ、いったん始まったオリパラ。

競技が始まってしまえばすなおに、選手さんたちの真摯で一生懸命な姿、超人的なプレイに魅せられ

感動する《「反対」だった思いも選手さんの姿の前ではひとたまりもない》。

でも、それとオリパラは関係ない。

たいていの競技に〇〇大会、世界大会というのがある《と思う》。

アスリートのみなさんはそこで、そこに向けて、「自己実現」されればいいと思うけれども、

よく「オリンピックは特別だ」と言われる。

それはオリンピック・パラリンピックが「世界のスポーツ祭り」で、世界中の人々が一つとなり

励まし応援してくれ、そのことが選手さんたちのやる気、モチベーションを高めてくれるから。

 

しかし、多くの反対の声を殺して強行した東京オリパラ。

 

主人公は選手! いくら自分のためといっても多くの人々に喜んでもらい祝福してほしいのが人情。

そうなのに、今回は単純には喜んでばかりではおられない複雑な心を想うとかわいそうになる

《上から目線のような表現でゴメンなさい》。

「私は出たくない! 出ない!」と声を大に叫びたくとも、どこかのスポーツ組織・団体に属し、

そこで今後も大好きなスポーツ、競技活動を続けていきたいと思うと棄権はできないに違いない)

 

■ 同じころ、こんどはテレビで東寺(京都)、宇宙を司るという大日如来が中心

「立体曼荼羅」の世界、空海の教えをやっていた。

                   東寺「仏像&立体曼荼羅」案内旅②見どころ1:立体曼荼羅がスゴイ理由は?

                      (グーグル画像より)

前回で親鸞の教えにちょっと触れた。

同じ仏教といえど、大いなるものへの畏怖を平安時代空海の教えには

直接かんじるが、あとの鎌倉になると大きく変わることに初めて気がついた。

(だから「鎌倉新仏教」と呼ぶのか)

法然親鸞たちの浄土思想、日蓮の教え、禅の考えかたなどは大いなるもの

への畏怖」よりか、他力・自力の違いはあっても人間の今生、救いにある。

旅で温泉に行くと、よくあちこちで「弘法大師が錫杖をつくと湯が出た」という言い伝えを聞く。

杖をついただけで湯を発見。そんな奇跡の話をつくった民衆には、空海「大いなるもの」と畏れ

崇められる神・仏のような存在だったのかもしれない 

 

ーーーーーーーーーー 

唯識」は、起こりはインドで「瑜伽(ゆが よくいう「ヨーガ」のもと)行派」。

中国では「法相宗」で説かれている。

(日本の法相宗は奈良の薬師寺興福寺、京都の清水寺などでいまも教えが説かれているとのこと

                     f:id:kame710:20210724133703p:plain

                              (グーグル画像より)
 

本の出だしには、「唯識」についてズバリこう書かれてある。

【引用】

「唯だ」とみることの重要性

「唯だ」あるのはなにか、…すべての存在の構成要素は、心の中に認識されて初めて成立する

としたのが「唯識」という思想です。…

自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて根本的心、すなわち阿頼耶識から生じたもの、

変化したもの…→(すべては心の中にあるということ)

 

「唯だ」とみること」だそうだ。

すべての存在…は、心の中に認識されて初めて成立する」というから、

若いころこだわった「唯物論」と「唯心論」に分ければ唯心論の一種。

「ものは思いよう」「なにごとも心の働かせ次第」である。

(当時は私は中途半端でも「唯物論者」だった。

正義や人の道を説く「道徳」などを社会の現実、矛盾だらけの実態をおおい隠す欺瞞だと思っていた。

「ものは思いよう」で、現実を苦しく辛く感じても、そんなの自分の思い、相対的なもの、たとえば

「下みて暮らせ」ば苦しくとも辛くもない。

もちろん現実社会で生きぬくために、「甘いも酸いも」併せのまなければならない中で変わった。

「わが身かわいさ」でズルくなり、いちいち腹を立てていたら身がもたないと自分の心に対して

言いわけするようになった

 

自分の周りに展開するさまざまな現象は、根本的心、すなわち阿頼耶識から

生じたもの、変化したもの」とのこと。

阿頼耶識」とは、心理学でいう「無意識」(とは違うようだ)みたいな深層の心

らしいが、こういう話になると私にはわかったようでわからない。

 

心の深いところ、本人も自覚していないもの、と言われても、わかったようで

わからない。

阿頼耶識」の考え、思想は唯識の根本の一つらしいけれど、この部分だけは

読み流した。

 

 

 

 

 

                  f:id:kame710:20171029114701j:plain 

                             ちりとてちん

 

<