『人はなぜ宗教を必要とするのか』 阿満利麿・著
1999年出版と古いのですが、宗教には新・古などほとんど関係ない。
とてもすばらしい本だった。
(長くなりますが、本の流れにそい、そのつど感想など書きます。
大きく1⃣から6⃣までの六つに分け、きょうは1⃣~4⃣です。5⃣6⃣は次回)
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‐1⃣‐
本の題名は『人はなぜ宗教を必要とするのか』です。
宗教とまったく無縁な人がいるかもしれないが、あまりいないと思います。
世界のどこでも人はだいたい宗教心をもって生きている。
日本人も遠い昔から鎮守の森の神さま信仰(アニミズム的な自然崇拝)と、仏教信仰を
もった。
なのに、
とくに戦後になって「私は無宗教です」という人がこれほど増えたのか?
【引用】
「問題は、どうしてこのような「無宗教」という表現が100年以上もの長い間(明治以降から現代)、
日本人の生活のなかに生きてきたのか、ということです。(二つあります)
↓
(理由①)「無宗教」が近代日本の宗教政策と深い関係にあるということ…
(「明治維新」で)京都に忘れられたように存在していた天皇をわざわざひっぱりだし、
天皇が古代神話に由来する「現人神」であることをあらためて強調した上で、
日本国を支配する絶対者と位置づけ(それが自分の利益になるから)、その崇拝を国民に強要すること
によって、新しい国家のまとまりを実現しようとしました。…
結果、人々は宗教という言葉に、…どこかに警戒心をもつようになり、宗教には距離をおくように
なった…
(理由②)「自然宗教」が、もともと「ムラの宗教」であったということと関係があります。…
背景にあったムラが失われること(→高度経済成長)によって、個別の家々で意識されるだけの、
すっかりやせ細った「先祖」を供養するだけの宗教になってしまったのです。…」
(注:〈〉・()・→、青太字赤太字はこちらでしました。以下の引用すべて同じです)
日本人はよく「無宗教」といわれるが、けっしてそんなことはないと、
著者は強く否定される。
著者は「宗教」はおおきく二つにわけられるという。
仏教などの「創称宗教」と、山や森などの自然物、水や風や火などの自然現象
への畏怖・崇拝(アニミズム)、それにまた(神話信仰までふくめた)先祖崇拝の
「自然宗教」の二つがあるという。
(本では日本の中心的な「創称宗教」である仏教のことが述べられます)
宗教心も世界中のほかの人たち、民族となんら変わらないのに(とくに、アニミズム
「自然宗教」は深くて敬虔な)日本の人々は、明治国家権力の「現人神」信仰の強制と
戦後の手のひらを返したかのような信仰の自由(信じないのも自由)をまえにして
躊躇せざるをえなかった。
「無宗教」をよそおうのはしかたのないことだった。
(「無宗教」なんて本心ではないのだ。「よそおう」のである)
「現人神」を信じ「天皇陛下バンザイ!」(と叫んでも、実体は母親だったにちがいない)
と敵艦めざして体あたりした特攻の若者と、「バンザイ」とはいわなくても
テロで自爆した(「神の国」へ行けると信じている)イスラム原理主義者の若者とは
重なってみえる。
「信仰」。信ずるという行為は、考えればとても恐ろしいことなのだ。
宗教にかぎらず信ずることは、賭けること、任すこと。
慎重でなければならないのだ。
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‐2⃣‐
「〈第1章 死ねば「無」になる〉
人はどのような考え方であれ、それによって人生の意義や死後の安心が「納得」できるのであれば、
その考えにしたがうもの…
「死ねば無になる」というのも、(「死」への)一つの「納得」の仕方なのです。…
(「死ねば無になる」を)科学的だから、という方もいらっしゃるでしょう。…
(「死ねば無になる」は)果たして科学的に証明できることがらでしょうか。
…
(「科学的だから」と理由づけしているが、現代人の本音は)人間の生をこの世限りのこととし、
有限の人生を享楽したいという欲求が、きわめて強くなってきた
…
近代以前の人々は、村や…町に属し、生まれてから死ぬまで、だいたい同じ顏ぶれに囲まれて、
お互いに顔を見ればなにを考えているかが分かるような暮らしをして(いたから、「取り立てて人生の
目標を議論する必要がなかった」)
(ところが近代になって、ひろく科学が流布し)
「科学」的であることが、なにごとであれ、「納得」するための条件なのです。
…
(「科学」の立場からは宗教の)「地獄」・「極楽」の問題は、今日ではもっぱら「非科学的」だと
頭からきめつけてとりあわないということが一般的です。
しかし、問わねばならないのは、どうして昔の人々がこのような「地獄」・「極楽」という世界を
必要としたのか、ということでしょう…」
「納得」
「(「科学的だから」と理由づけしているが…)人間の生をこの世限りのこととし
有限の人生を享楽したいという欲求が、きわめて強くなってきた」。
(権力欲のためなら人間としての品性までかなぐり捨てる安倍や麻生が私にはまっ先に想われた。
彼らのことを想うと)
「人はどのような考え方であれ、それによって人生の意義や死後の安心が「納得」
できるのであれば、その考えにしたがうもの」なんだということを痛感する。
「地獄」・「極楽」
早死にしたり、徳のある生きかたをした人は「どうぞ、天国に召されますように」
(反対に悪事をはたらき罰せられなかった人は「どうぞ地獄に堕ちますように」)と私は祈る。
祈るけれど、科学的には「天国」「地獄」の存在を信じられないから心は複雑。
でも「昔(に限らない)の人々が…「地獄」・「極楽」という世界を必要とした」
ことはとてもよくわかる。
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‐3⃣‐
「〈第2章 「無宗教」を支える心〉
「無」には、絶対的な真理という意味もふくまれている…
(宗教という文脈での)「死ねば無になる」という言葉遣いには、単になにもない状態になる
というだけではなく、いわば永遠の世界に帰ってゆくという意味あいもふくまれているのです。
…
(「風流」「自然のなかに溶ける自己」ということについて)
日本人の短歌や俳句好きは、単なる文学趣味ではなく、宗教的営みではなかったか…」
「日本人の短歌や俳句好きは、単なる文学趣味ではなく、宗教的営み…」という
一文がつよく心にひびいた。
短歌や俳句のような文学だけでなく、茶道、華道のような「〇〇道」と呼ばれる
古くからの芸術的(武芸をふくめて)活動もみんな日本人にとっては「宗教的営み」
といえるのかと思った。
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‐4⃣‐
「〈第3章 「無宗教」者の宗教批判〉
「浮き世」の人生観を支えたのが、そして今も支えているのが、…「葬式仏教」です。
死後、仏教式の葬式を営めば、だれでも「ホトケ」になることができるという死後の保証があればこそ
現世を心おきなく享楽できたのです。
…
(自分の人生において仏教の出番は葬式と法事くらいと思っている「無宗教者」であっても)
共存こそがこれからの時代のキーワードであることを思えば、…
→(宗教を信じる人たちを理解しておかなければならない。
しかし、明治維新の「太政官布告」の「僧侶の肉食妻帯は勝手たるべし」、つまり自由にまかす、…
国家権力が示した一片の言葉をもって仏教の要といわれる「戒律」を簡単に放棄して平気でいる事実に
仏教の「発信者」たる寺、僧侶、坊さんの多くはどうこたえたのだろうか?
いまもある「宗教」はインチキだという批判・非難にまともにこたえられるのだろうか)…」
学校の先生は労働者か聖職者か、ということがいわれた時代があった。
(そのときの「聖職者」に僧侶も意味したかどうかは知らないけれど、厳しい「戒律」を守っている
坊さんを思いうかべた人がいただろうか?)
私はそんなふうに二者択一しなくても教師は労働者だが、子どもたちの見本と
なるような人であってほしい、だから聖職者でもあると思っていた。
いまも変わらないので、教師(だけではないが)のハレンチ行為をきくとこっちまで
赤くなる。