二つ目の話は「寺を見なおす」です。
(2014年、「全国日蓮宗青年会」で「イスラームは世界的規模のグローバル共同体」という題名で
講演されたもの)
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寺の話にはいる前に、イスラム教、「テロ」の話があったのでそのことを。
■ 起源からいうと、イスラム教は(キリスト教も)砂漠や荒野をさまよっている
人たちのいのちを救うためにあったとのこと。
無条件で飲み物食べ物寝るところを提供しなければならない。…
歓待が一神教倫理の基本になるわけです。…
相互にその誓約を実行することで、遊牧民たちは生き延びてきたし、これからもそれに基づいて
生き延びてゆく。…
「歓待」が一神教のもっともたいせつにしなければならない倫理的な行いの一つ
だとは、仏教信者の私はここを読むまでまったく知らなかった。
この相互扶助と喜捨の倫理(「歓待」のこと)はアメリカン・グローバルリズムとは
まったくそりが合いません。
合うわけがない。
(アメリカ流のグローバルリズム=)新自由主義者たちのルールは、
「勝った者が総取り。負けた人間は野垂れ死にしても、それは自己責任」というものだからです。…
欲しければ自分の才覚で勝ち取れ。
(テロは)個別的な軍事的・警察的対応でどうにかできる話ではもうない。
運動の核心にあるのが宗教だからです。
テロそのものは断じて許せない。撲滅しなければならない。
その点では世界中が一致し、「断固として闘う」もおおむね一致しているけれど、
「何で(どういうわけで)テロが起きるか?」まで考え対策をとらないとダメなのに
「モグラたたき」ゲームに終始している。
(グーグル画像より)
しかし、(テロの)核心にあるのが宗教なのだということはすごく重い事実。
(いま起きているテロはイスラム教の一宗派「原理主義」が多いけれども)別な宗教、宗派が
起こすかもしれない。
宗教というものの根本に立ちかえって考えると、物理的な力にどれほど頼っても、
軍隊や警察が出動しても終わることはない。
(日本でも、信仰のエネルギーのすごさは「隠れキリシタン」に感じる。
江戸まで遡らなくても、オウムのサリン事件というテロが少し前にあった。
オウムのサリンは宗教から発し、かつ「政治的動機」もありテロである。
《「テロ」とは呼ばなくても》「誰でもよかった」という通り魔殺人など、「テロ」に近い物騒な
殺人事件《先日の小田急電車の事件など》が日本でもときどき起きている)
■ 「タリバン」のこと
イスラム教などの世界に住んでいなくても、「歓待」や「相互扶助と喜捨の倫理」
はわかるが、いろいろ(たいてい悪く)いわれている「タリバン」はわからない。
(アメリカは「タリバン」を「テロの温床」と決めつけ、アメリカ軍を長い間たくさん投入してきた。
にもかかわらず、この戦争に勝つ見とおしは立たず、兵士は疲れ、士気もあがらない。
しかたなく、いまになり撤退した。
すぐ「タリバン」が政権をとった《そんなことわかっていたはず。「決めつけ」はどうなった?》。
ここにいたってもアメリカは「敗けた」とはいわず、撤退の理由を
「アメリカ本土へのテロは大丈夫だから…」といいわけをする。
大国とは勝手なもんだと思った)
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ここからが、これからの日本社会に宗教がいかに求められてくるか、
そもそもなぜ、人間にとって宗教がたいせつなものであるかの講演です。
(二つに分けて書きます)
① 宗教的なもののもつ力
〈宗教施設の持つ開放性と永続性〉
(寺は「霊的センター」としての宗教の場)周りがどれほど世俗に汚染されていても、
そこだけ(寺)は清浄だという場が人間には必要なんです。…
(人間には)「超越的なものとの回路」が必要…
(そのためには)人体のセンサー感度を高め身心を調えておく…
私はふだん目にする寺を、こういう敬虔な気もちで見たことはなかった。
ここを読み、とてもたいせつなことだと、目が覚めるような気もちになった。
(内田さんは神社仏閣などに足を踏み入れるとき、そこは無数の人たちが手を合わせ、祈りをささげた
場所だと想うと自然に頭が下がるというような意味のことをある本に書いておられた。
《私は小学生のときの同級生に寺の息子がいて、あまりいい思い出はないので、寺と聞けば
「クソ坊主」を連想し、その本のここを読むまで神社や寺院を訪ねても形式的な儀礼はしても
心をこめてはいなかった》)
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② 宗教的感受性のもつ力
〈宗教的感受性の再生は喫緊の課題〉
宗教をどう取り扱うかという問いのうちには人間が考えるべきすべての問いがすでに含まれているから…
宇宙とは何か、人間とは何か、生とは何か…
深く胸にひびいた。
前に、宗教の本質は(いつの時代、場所をとわず)大いなるものへの畏怖の念と
書いたことがあるけれど、そこには人間が考えるべきすべての問いがあるのだ。
「すべての問い」のなかには人間的努力のせいで「答え」が見つかるものもある
けれど、いつまでたってもただ畏れおののき、祈るしかない物事もあるのだろう