まったくつまらないケンカをした。
(双方の言いぶんが激突する、といったドラマチックなものじゃない)
「イヌも食わない…」というけれど、ド当たりしている。
(当事者には一大事であってもこれほど他人に「どうでもいい」ことはない)
まったくつまらなくても、その原因はこちらにあるので自己嫌悪しないでは
おられない。
(グーグル画像 「オトナのコクゴ」より)
自己嫌悪にさいなまれているときは後悔でいっぱいだ。
なんとバカなこと言ったものだろう…
時間がたって落ちつき冷静さがもどると、やっと心のよゆうができ反省する。
(思えば結婚このかたどれだけ反省してきたことだろう。若いときからだいたい似たようなパターンの
ケンカを繰りかえしてきた。今回だけでなく、ほとんどがこっちに原因があり、私があやまる)
ふだんは読書感想などを書いていますが、きょうはまったく私的なこと、思い。
(恥をさらすようなものであまり気乗りはしないけれど、お読みくださる方のほとんどは私の素顔を
ご存知ないこともあり、たまにはこんな異色記事もいいかと思いました)
-----
「これ、ショウガ入っているだろ」
(家で回転ずしをたべたとき生姜がたくさん残った。もったいないので使いきろうとほかのおかずに
混ぜるなど彼女はいろいろ工夫をし、そっと食卓に出してくれていた。そのときのこと。
出された食事に言ってしまったのだ。
文句のつもりではなかったけれど、口調、トーンがとんがっているように聞こえたようだ。
言葉のなかみだけでなく、言いかた、口調にも気をつけなければならないとは、ケンカのたびに言われ
自分でも心底かんじていたことだ。
ずっと昔、映画『雨あがる』という時代劇で主人公の侍が妻に「です・ます調」でしゃべるのがとても
新鮮に感じられしばらくマネた《が三日坊主にもならなかった》。
「親しきなかにも礼儀あり」なのに、そのときまた私は礼儀にかけていた。→食べられないわけでは
ないのに、バカ息子が母親のふかい愛にあまえてイチャモンつける、わがままを言うみたいだった。
こんなバカを言うはめになるのなら、回転ずしを食べたとき《寿司とともに食う生姜は好きなのだ》
全部たべておけばよかった《そういう問題では全然ないのですが…》)
ーーーーーーーーーー
一つひとつのケンカ、諍いにそのつど自分としては謝罪、反省してきた。
が、こんどは気がついたことがあった。
たぶん、これまでの反省が軽かったというのでなく(いや軽かったから気がつかなかった
ともいえるが)反省する焦点がちがっていたのではないかと思った。
(私はふだん、気もち、思いがいちばんと「心」にすべてを丸なげしたような、考えようによれば
ごまかしたようなことを言っている。
「心」という《自分にとっては感性にもとづいた確かなものでも相手には不確かな》魔法をつかって
ダマしていたのかもしれない。反省は具体的でなければならないのだ)
-----
いつもエラそうなことを書いていてすみません。