その2は、阿純章さん(天台宗の僧侶)の「要に急がず、不要に立ち止まる」です。
【引用】「〈”要“と”急“からの解放〉
不要不急も決して悪いことではない。
案外、自分のやっていること(あるいは自分自身の存在すら)が不要不急であると気づいてホッとする
ことだってあるかもしれない。
不要不急という言葉も使い方次第では「そんなことしなくても大丈夫、焦らずのんびりいこうよ」と
人を安心させる優しい言葉がけにもなるだろう。
要に急ぐばかりでなく、むしろ不要に立ち止まってみるというのはいかがだろうか」
「「我」をベースにした社会の行き詰まりというのは、こうした能力主義社会の限界をも
意味している。
自力社会から他力社会へとパラダイムシフトして、誰もが存在するだけで価値があるということに
気づき、存在そのものを認め合うことができるようになれば、私たちの生き方や社会環境はずいぶんと
違ったものになるのではないだろうか。
…
白い紙に「私」という字を書いて見せて「何が見えますか」と尋ねれば、
誰もが「私」という字が見えると答えるだろう。「私」と書いてある白い紙が見えるとは答えない。
「私」と同時に白い部分も見ているはずなのに、「私」だけにとらわれてしまうと、
その周りにある余白に気づかないのだ」
(注:「」・〈〉、赤字・太字・赤字はこちらでしました)
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つよく感じたことをふたつ、書きます。
① 「不要不急」
自分の人生で、自分が「主人公」であるために、「自分にとって」の「用」・
「急」をしっかり考えてみなければならない(と前記事に書いた)が、
その前にもっとだいじなことを考えてみなければならない。
そもそもそれは、ほんとうに「必要」なことか?
ほんとうに「急ぐ」ことか?と。
案外、「急いでしなければならない」ことだと思いこんで(思いこまされていて)いただけのこと
かもしれない。
「要に急ぐばかりでなく、むしろ不要に立ち止まってみる…」
(誰にでもある子どものころの「道草をくった」ことを思いだす)
寄り道とかまわり道しないと見えてこない物事があると思う。
② 「他力」
「他力」を信じる、なるべく自力、自分にこだわらないようにすることは、
他人を当てにする、「他力」によりかかることではない。
そうではなく、
「白い紙に『私』という字を書いて…「私」だけにとらわれてしまうと、
その周りにある余白に気づかない」のであり、「「私」と同時に白い部分も
見ているはずなのに」、(「余白」だから目には見えないけれど)無限の人たちや物事の
「縁」に支えられて、自分という人間は存在していることに気づく。
(目には見えない「余白」。感じるしかない「余白」。
「余白」は《これも前記事で書いた》「曼荼羅」のようなものかもしれない。
無数の「縁」は無数の「曼荼羅」としてひろがっているようなイメージをもった)
「誰もが存在するだけで価値がある」のだ。
(それが「他力」の考えかたなのだろう)