カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.12.10 「不要不急」 その2(要に急がず不要に立ち止まる)

その2は、阿純章さん天台宗の僧侶)「要に急がず、不要に立ち止まる」です。

 

【引用】「〈”要“と”急“からの解放

不要不急も決して悪いことではない。

案外、自分のやっていること(あるいは自分自身の存在すら)が不要不急であると気づいてホッとする

ことだってあるかもしれない。

不要不急という言葉も使い方次第では「そんなことしなくても大丈夫、焦らずのんびりいこうよ」と

人を安心させる優しい言葉がけにもなるだろう。

要に急ぐばかりでなく、むしろ不要に立ち止まってみるというのはいかがだろうか

 

「我」をベースにした社会の行き詰まりというのは、こうした能力主義社会の限界をも

意味している。

自力社会から他力社会へとパラダイムシフトして、誰もが存在するだけで価値があるということに

気づき、存在そのものを認め合うことができるようになれば、私たちの生き方や社会環境はずいぶんと

違ったものになるのではないだろうか。

白い紙に「私」という字を書いて見せて「何が見えますか」と尋ねれば、

誰もが「私」という字が見えると答えるだろう。「私」と書いてある白い紙が見えるとは答えない。

「私」と同時に白い部分も見ているはずなのに、「私」だけにとらわれてしまうと、

その周りにある余白に気づかないのだ

 

(注:「」・〈〉、赤字太字赤字はこちらでしました)

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つよく感じたことをふたつ、書きます。

 

① 不要不急

自分の人生で、自分が「主人公」であるために、「自分にとって」の「用」・

「急」をしっかり考えてみなければならない(と前記事に書いた)が、

その前にもっとだいじなことを考えてみなければならない。

 

そもそもそれは、ほんとうに「必要」なことか?

ほんとうに「急ぐ」ことか?と。

案外、「急いでしなければならない」ことだと思いこんで(思いこまされていて)いただけのこと

かもしれない。

 

要に急ぐばかりでなく、むしろ不要に立ち止まってみる…

(誰にでもある子どものころの「道草をくった」ことを思いだす)

寄り道とかまわり道しないと見えてこない物事があると思う。

 

② 「他力

他力」を信じる、なるべく自力、自分にこだわらないようにすることは、

他人を当てにする、他力」によりかかることではない。

そうではなく、

白い紙に『私』という字を書いて…「私」だけにとらわれてしまうと、

その周りにある余白に気づかない」のであり、「私」と同時に白い部分も

見ているはずなのに」、(「余白」だから目には見えないけれど)無限の人たちや物事の

「縁」に支えられて、自分という人間は存在していることに気づく。

目には見えない「余白」。感じるしかない「余白」。

「余白」は《これも前記事で書いた》「曼荼羅」のようなものかもしれない。

無数の「縁」は無数の「曼荼羅」としてひろがっているようなイメージをもった)

 

誰もが存在するだけで価値がある」のだ。

(それが「他力」の考えかたなのだろう)

 

 

 

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                             ちりとてちん

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