東北大震災の「絆」のように、コロナ禍では「不要不急」がいちやく有名になった。
(やっと「不要不急」もお払い箱になったかと安心し、《地域版ではあっても》「GoToトラベル」が
再開されてきたが、「オミクロン株」のせいでまた叫ばれるかも)
(グーグル画像より)
『不要不急-(副題)苦境と向き合う仏教の智慧』
という本を読んだ。
〈本の感想のまえにひと言〉-----
コロナ禍で、入院しようにもベッドが足りなくなるという事実がはっきりあらわれた。
根本の原因は安倍政権下、「医療費削減」の名のもとに、空きベッドはムダ、「不要不急」とばかりに
入院ベッドを減らしてきたことにある。
そればかりか、医療の人手(とくに保健所削減にともなう保健師の超)不足もあり、
コロナ患者への対応が間にあわなかったり、手術の必要がある人が後まわしにされた。
(そのせいで助かる命がどれほど諦められたことだろう。コロナ禍ばかりがニュースになり、
ニュースにもされることのなかった命)
本気で「医療費削減」をしようとすれば、ムダづかいの真の元凶、薬の出しすぎという「不要不急」に
手をつけなければならない。
それが製薬大手企業からの寄付も大きな資金源となっている自民にできるわけがない。
(とはいえども、そういうのは日本だけの話じゃない。「Gなんとか」サミット国など世界の大勢、
資本主義国の政治と資本家とのつながりはどこでも同じもの。「民主」と名がついてもアメリカも
日本も、ただスケール・桁がちがうだけ。どちらも資本家、企業化にどれだけあと押しされている
ことだろうか)
ここからはついで話 ↓
ひどい副反応(なかには死亡)が懸念されながらも世界的に使用されてきた(いる)ワクチン。
今じゃ、これの接種証明がないとできない・許されない、まるで江戸時代の「通行手形」のように
なってきている。
このワクチン製造、世界への供給のしくみ。真実のところはどうなっているのだろう?
「ファイザー」や「モデルナ」といったアメリカの大きな製薬会社はどれだけ儲けたのだろうと私は
(グーグル画像より)
「下衆《ゲス》の勘ぐり」をする。
3回目接種がよびかけられたり、また心配なオミクロン株に対応した新たなワクチン開発を進めたり、
自社の利益など度外視し、「人類をすくう」という騎士のような高まい精神でコトに当たっている?
(研究・開発の最前線のみなさんにはそういう尊い心をお持ちな方がいると信じているけれども)
「不要不急」という言葉がはじめて行政から呼びかけられたときは、
まだコロナの正体も感染からの予防もわからず、不安で心配で(それにこれほど長びく
とは思わなかったので)国民は深くかんがえることもなく受けいれた。
(子どもたちの学校教育まで「不要不急」とされた)
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それもあり、不要不急でない今こそふかく「不要不急」について考えてみることは
たいせつな気がする。
仏教者はコロナ禍を、それに対する政府の「不要不急」をどう受けとめたのか?
仏教の智慧もしりたくて読んだ。
数名の僧侶のかたが、それぞれについて思い考えることを述べられている。
あまりによかったので3回にわけて書こうと思います。きょうはその1。
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1回目は、横田南嶺さんという禅僧と白川蜜成という真言僧のそれぞれの話に
共通したところが感じられ、「無用の長物」とした。
【引用】
・横田南嶺
(グーグル画像より)
「「仏法は障子の引きて峰の松」
考えてみれば仏法というものも、所詮障子の引きてのごとく峰の松のごとく、
はた火打袋か鶯の声のごとく、無用の長物に過ぎん。
しかしこの無用の長物こそ人生にとって最も大切なもの…」
「「有の利を為すは無の用を為すため」
効率のいいもの、生産性の高いものばかりを追い求めていては、心が窮屈になってしまいます」
「「華厳」→「雑華厳飾(ゾウケゴンジキ)」→さまざまなお花でこの世を飾るという意味」
・白川蜜成
(グーグル画像より)
「なぜ曼荼羅が一見まさに「不要不急」なものを内部に組み入れたのか。
それは人間の生存本能であろうと私は思う。
あらゆる存在は、不要不急の「雑」なるものをハイブリッドに取り入れなければ、
本当の意味で「生きる」ことができない。
密教はそれを行による直感と民衆の生活経験により知っていた。…
世界はいろいろなものが混じり合ってできていることが見えたのだろう」
「一見役には立たない、そしてすぐには必要のないものを安易に切り捨ててしまうのではなく、
曼荼羅のように包摂していくことで、生活は自ずから変化をみせるだろう」
(注:「」、→、赤字、太字はこちらでしました)
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「仏法は障子の引きて峰の松」。
仏教を職業とする寺にすれば、食っていかなければならないので、仏法を
「障子の引きて」「峰の松」…のような「無用の長物」に扱うというわけには
いかないと思うけれど、
「無用の長物こそ人生にとって最も大切なもの」と、ほとんどの真面目な僧侶は
考えておられると思った。
横田さんだけでなく著者のどなたも、「無用の長物こそ…最も大切なもの」
「効率のいいもの生産性の高いものばかりを追い求めていては、心が窮屈…」
という意味のことを、それぞれの言葉で述べておられた。
「華厳」が「雑華厳飾」、「雑華」の「華」と「厳飾」の「厳」からつくられた
言葉であること、それが「さまざまなお花でこの世を飾る」という意味だとは
知らなかった。
「華厳」は「曼荼羅」に通じるのだと思う。
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「曼荼羅」。
白川蜜成さんの曼荼羅へのみかたに深くうなづいた。
大日如来を中心とする宇宙世界を衆生のだれもがわかるよう図(絵)示したもの
だけれども、さまざまな、多種多様な物事でこの世は成りたっている、
自分の人生も成りたっている、だから
「一見役には立たない、そしてすぐには必要のないものを安易に切り捨てて」は
ならない。
「曼荼羅のように包摂していくことで、生活は自ずから変化をみせるだろう」
から。
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二つ、とてもたいせつなことを思った。
① なにが「不要」でなにが「不急」なのか?と一般的に考えるのではなく、
自分にとって「なにが『不要』でなにが『不急』なのか?」と考えなくて
はいけないと。
(著者の何人かは同じことを述べておられたが、突きつめていえば)そもそも自分の存在じたいが
「不要不急」といえなくもない。
(これも何人かの著者が述べておられたが)禅語に「主人公」とあるように、自分の人生の主人公は
まさに自分であるので、自分にとって「なにが『不要』でなにが『不急』なのか?」
(つまり、「なにが『要』でなにが『急』なのか?」)をしっかり考え、見きわめなければならない。
② それが自分には「無用の長物」にみえても、ある人にとってはだいじな物事
けっして「不要不急」ではないということをわからなければならない。
そもそも「無用の長物」、ムダな存在はないのだ。
密教は「世界はいろいろなものが混じり合ってできている」「曼荼羅」の世界
だという。