カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2021.12.14 「不要不急」 その3(何が「エッセンシャル(本質的)」なのか?)

(きょうは「不要不急」の最後)

南直哉さんという禅僧の「何が『エッセンシャル(本質的)なのか?」です。

 

【引用】「〈不要不急」経済の果て

現今急激に進展するIT・AI技術は、まさに身体性の消去を目指す技術とも言える。

バーチャルリアリティ人工知能、ロボット、サイボーグ技術、

それらはまさに身体性の代替と拡大テーマである

 

我々がかろうじて持ちうる「死」のイメージは、身体の消滅以外に無く、

もっとも我々に切実な「自然」は自分の身体だ。…

ウィルスは、このような身体の致命的意味を、我々に強烈なインパクトで想起させたのだ

エッセンシャルワーク」という、いささか偽善的な匂いがしないでもないタームが

今更ながら持ち出されてきたのは、単にそれが日常生活に不可欠だという単純な感覚ゆえではない。

身体の意味がリアルに想起されたから、その仕事がエッセンシャルだとわかったのである

 

「〈自己・所有・貨幣(資本)

一方に「不要不急」に拡大した資本と市場があり、他方に「必要至急」なものが何かを示す身体がある

このとき、「自己」とは、「身体における存在」である。…

我々の「存在」は不要不急」である。

しかし、我々の「身体」は、それを維持して「自己」であるために何が「必要至急」なのか…

つまり、「自己」は常に、「不要不急」と「必要至急」に引き裂かれた存在なのだ。…

「自己」と呼ばれる存在の仕方には、根拠が欠けている

資本主義の根本原理である「私的所有」とは、正に対象物を(廃棄を含めて)思いどおりにできること

…それは、所有行為によって「自己」の存在を根拠づけることである。

ならば、諸行無常を標榜して、「自己」それ自体の存在を錯覚に過ぎないと考える仏教が、

返す刀で私的所有に極めて否定的な態度を示すのは、実に当たり前である

 

(注:「」・〈〉・①~③、下線、太字太字赤字はこちらでしました)

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南直哉さんという禅僧は(前にも記事を書いたことあるけれど)哲学者みたいに

ちょっと難しいことをいわれているようだけど、熟読すると私でもわかった。

わかると深く納得する。

 

①から③にわけて書きます。

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① 著者は曹洞宗の僧侶で、原点は「身体」だ。

禅語のほとんどは、心の無(心をなにかにとらわれてないこと)、身体が発する声を感じることの

たいせつさを説いている。

 

IT・AI技術」は「不要不急』経済(なくてもいい急がなくてもいい経済)の果て

登場し、「身体性の消去を目指す技術」になっている。

 

いまでは身にはなせない「IT・AI技術スマホ

それはなくてはならぬものだろうか。

それは、ますます自分の身体を意識しなくてすむようになっている。

たとえばなにか物事を調べようとすれば、ネットが普及するまでは、図書館や本屋さんまで出むき、

または人を訪ねて聞いたりして(そのため足や手をつかい)必要な情報を入手していた。

たとえば買い物の支はらいで、お金を手で握ることさえしなくてよい。

あらゆる情報入手、手続きは、スマホ画面をながめて頭はつかうが、身体といえば(広い意味では

「頭」も「身体」のうちだけど)指だけつかえばすむ。

 

バーチャルリアリティ人工知能、ロボット、サイボーグ技術」の世界がますます進めば、

コロナのような感染症にかかって「ああ、私たち人間も動物で身体があったのだ…」と感慨にひたる

こと起きるかもしれない。

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② 「エッセンシャルワーク」という言葉をコロナ禍ではじめて知った。

 

①の身体性と強く関連するけれど、「生きる」ことは「生活する」ことを

この言葉からあらためて気づかされた。

この「気づき」(東北大震災のときも人間が生きるうえで、ほんとうにたいせつなものは何か?

ということがあれこれといわれた)をだいじにしなければならない

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③ 仏教は宗教だから、こころという内面のはたらき、信仰や救いによって

人生を豊かにしてくれる。

しかし、人生は社会とは切りはなせないので、社会にも関心をよせる。

 

諸行無常を標榜して、「自己」それ自体の存在を錯覚に過ぎないと考える仏教が

返す刀で私的所有に極めて否定的な態度を示すのは、実に当たり前…

を読んで、私は深くうなずいた。

著者はお坊さんだから革命家ではないけれど、「社会革命(変革)」に

既成の政治勢力よりずっとラディカルだ。

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〈オマケ〉

人類がうまれてからずっと長いあいだ「平等」だったのに、「私的所有」により差別がうまれ、

「持つ者」「持たざる者」にわかれた。

ほとんどが資本主義体勢のいまの社会(中国は「社会主義」と自分ではいうが、経済は「私的所有」が

とりいれられ資本主義的で、政治上の「独裁主義」というのが当たっている)は、いずれ遠いさき

まだ人類がつづいていればの話)「私的所有」をなくし、ふたたび「平等」にならなければ

人類の維持・存続じたいが成りたたないのではだろうかと思う。

 

ちなみに、「世界の格差」とネット検索したら、いちばんに

10.人や国の不平等をなくそう | SDGsクラブ

というサイトの

多くの国でかつてないほど格差が広がっています。
2017年には、世界のもっとも豊かな1%の人が
世界全体の富の約33%を持っていました。

が出てきました。

こういう人類の姿を神仏(私は仏教者だから、いると信じる)がいつまでもお許しになるはずはない。

 

 

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                             ちりとてちん

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