戦争は国家が公的に認めた殺人。
国が認めようが認めまいが、殺人を行う個人、加害者の心は平和な国での人殺しと
何ら変わらない。
感情を麻痺させねば、自分の心を押し殺さなければ、とうてい人を殺すなんて
出来ない。
ブチャでの大虐殺、「感情麻痺」させなければ不可能な出来事だ。
人間はそういうことが出来るのだ。
戦争になれば、人は「こころ」も「理性」もなくし、
「やらなければ自分が殺される」と、ただただ恐怖に身をまかせる
しかなくなるのだろう。
戦争を絶対起こしてはならないと、あらためて思う。
(ブチャでの出来事、映像も西側プロパガンダ、フェイクニュースだとロシアは言っている。
けれど、戦争さなかにここまで映像が編集・加工できるものだろうか?)
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(ここから以下が、きょうの記事として事前に書いていたものです)
先に本からの引用文を。
①【引用】
「〈人類の進化は不適応なのか〉
こころは人類進化における社会の展開に伴う新たな課題に対処して、様々な文化装置を作り出すことで
個人と社会の存続をはかってきた。
…
人類についての最良のシナリオをもし挙げるなら、人間はもう一度、人類進化史におけるこころと
人間性の起源という根源的事実を知り、こころの自然にまで遡り、そこから長期的展望に立って
人類の未来を照射し、それを実現するためのこころの制御を行うことである。
こころは人類進化においてそうであったように、適応の産物であると同時に行動の内なる主体となる
からである。
…
〈こころの自然に生きる〉
死の瞬間から日常を見る
…
利己、利他を越えたこころの自然
…
こころの根源的な真実とは、理性を越えたこころの世界であり、仏教でいう空に相当する。…
現実世界を絶対的存在とは見ていないこと、そして、理性を越えた世界があること、
さらには現実世界は相互依存により成り立っていることを認める」
(注:「」〈〉、太字太字はこっちでしました)
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「こころは人類進化において…適応の産物であると同時に行動の内なる主体」
人間という生物の場合は、みんながお互いに相手を思いやり、仲よくしようという
「こころ」の働きが「進化」に向けての「適応」だった。
ほとんどの人々はそうであり、人間としての良心をいちばんたいせつに生き、
暮しているのに、ごくごくごく…一部、一握りの(いまや世界の「悪」の代名詞になった
かのようなロシアの)P(権勢を振りまくったかつてのアメリカの)T、日本のダブルAなどの
ような輩に政治を通じて支配され、滅亡への道を歩みつつある気がしてならない。
彼らだけが滅亡ならばよいが(よくはないか?)、いまや人類みなが道づれになる。
「進化」の方向が「不適応」に向いているのではないか。否が応でも感じてしまう
「進化」とは生物すべてに当てはまると考えられている概念だ。
「進化」とは「適応」を含むより大きく広い概念だ。
(しかしどうやら私が勘違いしていたことに気がついた)
人間にとっての「適応」は、みんながお互いに相手を思いやって仲よくなること
ではなかったのだ。
「不適応」の挙句のはてが、「進化」という名の「滅亡」であっても。
(「○○ファースト」という言葉を聞いて反吐が出そうになったのは私だけではないと思う。
自分と自分の家族、次にそれ以外の自分が属する集団、社会、地域や国をだいじにする。
「次に」といったけれど、そうすることが自分と自分の家族をたいせつにすることにつながる、
と素朴に信じていた。子どもの頃よく聞いた。
「自分は他人のために」「一人はみんなのために」)
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「こころの根源的な真実とは、理性を越えたこころの世界」
こころは「理性を越えた」世界なのだ。
ウクライナ戦争において、プーチンが演説するときは(多少は狂気がかっていても)
「戦争の正当性」と、まさに「理性」から発したもの言いをする。
しかし、子どもを、親を、愛する人を殺されたどうしようもない心の哀しみ嘆きは
「こころの世界」のもの。
心は個人の世界でのことだから、他人、社会(国家)でどうにかなるものでは
断じてない。
(戦争という《ある意味できわめて非人間的な、同時に別な意味ではきわめて人間的な》場における
「ジュネーブ条約」などの国際法、法律、ルールの取り決めのナンセンス、むなしさ。
↓
金正恩がまたも国際間の取り決めを破りミサイル発射実験をした。
彼は、日本などの国土に落下させればとんでもない被害が起き、大勢の人が死に、限りない涙が流れる
悲劇、大参事が起きることがわかっているから届かさせないのであり、《「大国」中心の》勝手な国連
安保理決議など「への河童」扱いしているのではないだろうか)
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②【引用】
「〈21世紀の仏教徒〉
ダライ・ラマ法王は人びとに「単に信心するのではなく、仏教とはどういうものかをはっきりと
理解した上で、21世紀の仏教徒にならなければならない」と説く。
…
実際のところ、シャマンによる治療も、仏教儀礼による長寿祈願も、…こころと身体に関わる心理療法に
他ならない。すなわち、
現実を空であると理解し、その上で、空なる現実を用いて、現実をより良いものにするのである」
(注:「」〈〉、太字太字はこっちでしました)
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(前に私は自分のことを「仏教者」と書いた。「自分のことを『仏教者』と言うのはヘン」とツレに
のたまわれたことがある。「仏教徒」という自覚はないので「仏教者」と言っただけ。
どっちでもいいけれど、これからは「仏教徒」と名乗ろう)
ダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受けられるほどすばらしい方くらいは
知っていたが、その事実以外は何も知らなかった。
この本で法王とチベット仏教のことを輪郭だけ知った。
(すばらしかった!)
法王は、これからの仏教徒は「仏教とはどういうものかをはっきりと理解」
しなければならないという。。
(ほんとうにそう思うが、私の祖母のような文盲には「単に信心するのではなく、仏教とは
どういうものか…」は「馬の耳に念仏」に違いない。
《これも前に書いたことだけれども》実家は貧乏な生活で小さな家だったが、仏壇だけは不釣り合いな
くらい大きかった《それでも並み》。祖母は欠かさず仏壇に飯を供え、「ナーマンダブゥ…」と手を
合わせる敬虔な仏教徒で、たぶん家族の健康と現世利益、自身の極楽往生を祈っていたのだと思う》)
自分の「現世利益」も「極楽往生」もたいせつに祈りながら、他人のそれも祈る。
「こころ」のことだから、祈り過ぎということはない。
仏さんの慈悲は、他人の利益を祈る分だけ自分の利益が減っていくものではない。
そんなちっぽけな、けち臭いもんじゃないのだ。
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「空なる現実を用いて、現実をより良いものにする」
(引用文からはわからないけれど)ダライ・ラマ法王は、自身の存在がチベットの
貧しい生活を強いられている仏教徒、民衆にとって「生き仏」のように思われ
受け入れられているという事実を逆手にとって、自分がほんとうの仏に恥じない
生き方をすることが彼らを救うことになることを深く自覚されており、実際に
そのように振るまっておられることを知り、強く感激した。
(ご自分が法王として存在しているという事実そのものをも、「空なる現実」としておられる。
その「空なる現実」《人々が自分を仏のように敬うこと》を利用して、チベットの人々、世界の人々の
「現実をより良いものにする」のである)