昔に読んだ河合隼雄さんの本に、「なぜ援助交際はいけないか?」といえば
それは理屈の問題ではないと、穏やかなこの方には珍しいくらいの厳しい言葉で
述べられていた。
殺人を犯した少年が、「どうして人を殺してはいけないの?」と言ったという。
(プーチンは何とこたえるだろう? 戦争で殺人行為を、兵士の私は自分をどう納得し正当化させる
だろう?できるわけがない! 誰も兵士にならなくてよい世の中でなくては…)
この前、ここで「理性を越えたこころの世界」と書いた。
「理性を越えたこころの世界」という言葉に刺激されて探したわけではないが
たまたま、『倫理という力』(前田英樹・著)という新書本に遇った。
とても刺激的な内容の、すばらしい本だった。
「道徳」「倫理」とよく口にする。
人としてのあるべき姿・態度、つまり「人の道」を、「道徳」は心・情に訴える。
「倫理」はそれを「理屈」にして頭に訴える。何故に私たちは「人の道」を
守らなければならないのかと。
(先の本の「理性を越えたこころの世界」の「理性」とは「理屈」であり、「屁理屈」も含む。
この「理性」は目的・内容・意義などにはまったく無関心で、ただ「論理」の整合性だけを指す
《真の「理性」は「心」「情」と決して対立せず、「心」「情」に裏付けられたものだと思う》)
「道徳」「倫理」は、法令のように社会、外側から人を規制し、縛るものではなく
個人の内側、心に訴える。
法律があるから守る、命令されたから守るというものとは根底から違う。
(自分のこころ以外の何かからというのはまったくのナンセンス。頼るべき信ずべきは自分の心だけ。
心はしてはならない、いけないと言っているのに、「法令にないから違反ではない」、逆に「法令上は
認められている」というのでするのを「屁理屈」、という。
六法全書のどの条文にも載っていないから違反ではない、という。
小説やドラマの話ではなく、「森友事件」でも反吐が出るほど見てきた)
「良心にしたがって」
(倫理はここからしか立ちあがらないと著者、前田さんは考える)
①「してはいけないことがある」
② 「〈人様〉という考え方は重要である」
③「在るものを愛すること」
の三つだけを書きます。
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【引用】「〈してはいけないことがある〉
理屈は人を救わない
はっきりしていることは、理屈は人を救わない、決して誰をも賢明にしないということだ。
…
私たちの社会で、殺人を禁じているものは、法律でも国家でも、また社会そのものでさえない。
この社会を、そうしたさまざまな禁止を生んでいる何かである。
私たちは、まさしくこの社会のなかでだけ個々人であることができる。
仕事をし、考え、争い、自分であることができる。
こっそりとであれ公然とであれ、禁止を破ることは、まずそういう〈自分〉が御破算になることである。
犯した犯罪を隠している者の苦しみも孤独感も、そこから来ている。…
この気付きは、ほとんど感情に等しい。
そしてそれが単なる感情に過ぎないと思い上がった時、人はとんでもなく誤るのである」
(注:「」〈〉、太字太字はこっちでしました)
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「この気付き」とは、自分の心の奥底の声(良心)ではないだろうか。
「この気付きは、ほとんど感情に等しい」
「単なる感情に過ぎないと思い上がった時、人はとんでもなく誤る」
血を見るのはイヤだ、死骸を見るのはぞっとする。
そういうのは勇気がない、男らしくない、女々しい…と「思い上がった時、
人はとんでもなく誤る」
(「殺人」というのは極端で、ごく軽いのは「ウソをつく」ということがある。
「ウソ」「偽り」とはいっても、一時的な方便、相手を慮ってのウソというものもあるけれども、
「捏造」「偽造」という、人を死に追い込むのもある。
心の奥底の声に耳を澄まさなければ)