カメキチの目
録っておいたNHKBS1の 『欲望の資本主義』という番組をみた。
シリーズもので、私がみたのはシリーズ終わりのころで、マルクス・ガブリエルと
いうドイツの若い哲学者が登場した。
(みてホントよかったです)
よかったという印象ばかりで、「で、何がよかった?」と聞かれたら、
ほとんど忘れていることに気づく。
ただ一つ、とても刺激的な言葉があって、忘れられない。
(けれど時間がたてば忘れてしまうので)自分の感想をまじえて残します。
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「運命」は「必然」ではない。
「運命」は「自由」である。
(ガブリエルさんは天邪鬼のようなことを言う)
他にも、「『理性』と『感情』は対立するものではない」も印象に残りました。
そのことで、彼は小林秀雄がどこかで述べた有名な文章
「美しい花があるのではない。私が花を美しいと思うのである」を挙げます。
「美しい花」なるものが存在するのではなく、「私が美しいと思う(私の感情)」
花があるのである(つまりこのとき「私」と「花」はいっしょになっているわけで
あり)そこでは確かに、私(小林秀雄)が「花を美しい」と感じるという事実
(理性)だけが述べられており、ここでは「理性」と「感情」は対立しない。
ガブリエルさんは、ふつうによくいわれる「『理性』と『感情』は対立する」
というような固定した観念(「常識」と呼ばれるもの)から、見かたをちょっと
変えるだけで「自由」になれると言う。
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「運命(=必然)から逃れられない」とよくいわれる。
あらかじめ決められた、逃れられない人生として受けとられやすい。
あとから(結果から)ふり返って「あれは運命(=必然)
だった」という言い方もよくされる。
自分で自分を納得させるために、「運命」という言葉を使っている。
(「運命」という言葉は便利です)
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「運(ウン)を切りひらく」ともよくいわれる。
こう言うと、「運命」は自分で変えられそうだ。
(もちろん「生まれ」のように変えられないものもあるけれど)
自分の力で変えることができると思うとき、
人は「自由」を感じる。
結果的には変えられないかもしれない。
変えられても変えられなかっても、その「結果」を「運命」と呼ぶのであり、
そもそも、なにごとかを始めようとする前から気にすることではない。
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ちなみに、グーグル辞書によれば「運命」とは
「人間の意志にかかわらず、身にめぐって来る吉凶禍福。めぐり合わせ。
転じて単に、将来」「めぐり合わせ」に着目すれば「縁」「つながり」みたい。
生きている現実は
「人間の意志にかかわらず、身にめぐって来る吉凶禍福。めぐり合わせ」だが
「身にめぐって来る吉凶禍福。めぐり合わせ」をだいじにしたい。
つまり、そんな「偶然」を「必然」、赤い糸に導かれたと感じられるように主体的
《自由》に行きたいもの。
思うようにはならなかったとしても「運命だった」
と深刻になるのではなく、は「ちょっと運に恵まれ
なかったなぁ」と笑っていたい。
マルクス・ガブリエルさんは、番組全体を通して、哲学者としての自分がいま何を
言えるか、言うべきか、訴えるべきかを常に考えておられました。
コンピュータ技術・バイオ技術の限りない開発、進化がみられる現代社会。
会社・企業の「儲け」「利益(潤)」の追求という資本主義の論理のなかで、
これまでの社会には見られなかった複雑な哲学的な(とくに人間倫理の)問題が
生みだされているとガブリエルさんは説かれます。
それらを、「私たち人間が生きているという事実」の根本に立ちかえって考え
なければならないとも。
〈オマケ〉
一般に若いときは仕事をはじめいろいろ忙しいので、目の前のできごと、
自分のやっていることの意味などを問うたり考えてみることはむずかしいですが、
歳をとると、人生経験も時間の余裕も増え、自分のことはもちろん、他人や世の
こともふり返ってみることが少しはできるようになり(私の場合の具体的な手段は
読書やちょっとしかないが好きなテレビ番組)新たに知ることわかることがとても
おもしろい。