カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.8.12 信心

あんなのも「宗教」のうちに含まれるのかと首をかしげてしまう「統一教会」。

 

また禅僧の南さんの本を読み、「信心」という、宗教ではあまりにあたり前、

前提のように扱われていることについて考えさせられた。

 

これは対談本で、相手は作家の高村薫さん。

『生死の覚悟』  高村 薫 南 直哉 という。

 

覚悟して生きなさい」「覚悟して死になさい」とのお二人の、まっすぐな対話が

ごく印象的だった。

 

南さんは前に読んだ本でも生きるか死ぬか以外は、大したことではない」と

いわれ、『ポストコロナ期を…』の本では三砂ちづるさんが、COVID-19禍に

よって私たちが気付くべき不変の真理は(1)人は必ず死ぬ。(2)自分が本当に

しなければいけないことは何もない、の二つといっておられたのを思いだした。

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ちょうど盆がやってくるので墓参について思った。

盆には帰郷し墓にまいり、先祖に合掌した。

(このときだけ自分のルーツ、姓を自覚する)

墓参というのは、祖先にたいして(あなたがいてくださったから、私があります)

「ありがとうございます」と感謝し、「安らかに」と慰霊することだろう。

そぼくな宗教感情であり、それが「信心」ということにつながるのかもしれないが

これは信心」と呼べるものではないような気がした。

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高村さんは宗教、仏教にふかく近づきながらも、仏の力を「信じる」ことになると

自分はあまりにも理性にこだわる人間だから、「信心」「信仰」にはどうしても

なじめないと告白される。

(《墓参ではなく》仏への信心ということになると、仏像を前にしても、心で仏を観想するにしても

私もどこかさめている自分、よそよそしい自分を感じる。

信心が自然にわき起きるのではなく、意識してもとう、敬虔になろうとしている自分を感じる

 

         

 

高村さんの告白に共感し、それに対する禅僧南さんの「答え」が聞きたくて

しかたなかった。

 

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【引用】

第三章 信心への懐疑

「信じる」行為そのものを脱落してしまう

「信心」の問題を抜きにして「宗教」を考えることはできない

おそらく「信じる者は救われる」という考え方がダメなんだと思います。

「救われなくても構わない」と見切るぐらいの気持ちでやらないといけない

(注:「」、太字太字はこちらでしました)

 

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信心への懐疑」。

「信じる」行為そのものを脱落」してみたらどうだろう、とのこと。

 

禅では「心身脱落」という言葉で、力を抜く、落とすことがとても大切なことを

あらゆる場、時をとおして説く。

(極言すれば禅の教え《禅語》はすべて、この禅の精神、心を説いていると思われる)

 

つまり、「信じる」ということにこだわらない、

信じているとか信じていないとか、どうでもいい。

 

「どうでもいい」けれど、

「信心」の問題を抜きにして「宗教」を考えることはできない」から、

冷めていても「自分は信じている」と信じ、それで救われる」ことがなくても

救われなくても構わない」と思うことが「信心」を持っている、信じること。

強くそう感じた。

 

 

 

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                              ちりとてちん

 

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