あんなのも「宗教」のうちに含まれるのかと首をかしげてしまう「統一教会」。
また禅僧の南さんの本を読み、「信心」という、宗教ではあまりにあたり前、
前提のように扱われていることについて考えさせられた。
これは対談本で、相手は作家の高村薫さん。
『生死の覚悟』 高村 薫 南 直哉 という。
「覚悟して生きなさい」「覚悟して死になさい」とのお二人の、まっすぐな対話が
すごく印象的だった。
南さんは前に読んだ本でも「生きるか死ぬか以外は、大したことではない」と
いわれ、『ポストコロナ期を…』の本では三砂ちづるさんが、「COVID-19禍に
よって私たちが気付くべき不変の真理は(1)人は必ず死ぬ。(2)自分が本当に
しなければいけないことは何もない、の二つ」といっておられたのを思いだした。
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ちょうど盆がやってくるので墓参について思った。
盆には帰郷し墓にまいり、先祖に合掌した。
(このときだけ自分のルーツ、姓を自覚する)
墓参というのは、祖先にたいして(あなたがいてくださったから、私があります)
「ありがとうございます」と感謝し、「安らかに」と慰霊することだろう。
そぼくな宗教感情であり、それが「信心」ということにつながるのかもしれないが
これは「信心」と呼べるものではないような気がした。
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高村さんは宗教、仏教にふかく近づきながらも、仏の力を「信じる」ことになると
自分はあまりにも理性にこだわる人間だから、「信心」「信仰」にはどうしても
なじめないと告白される。
(《墓参ではなく》仏への信心ということになると、仏像を前にしても、心で仏を観想するにしても
私もどこかさめている自分、よそよそしい自分を感じる。
信心が自然にわき起きるのではなく、意識してもとう、敬虔になろうとしている自分を感じる)
高村さんの告白に共感し、それに対する禅僧南さんの「答え」が聞きたくて
しかたなかった。
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【引用】
「第三章 信心への懐疑
「信じる」行為そのものを脱落してしまう…
「信心」の問題を抜きにして「宗教」を考えることはできない…
おそらく「信じる者は救われる」という考え方がダメなんだと思います。
「救われなくても構わない」と見切るぐらいの気持ちでやらないといけない」
(注:「」、太字太字はこちらでしました)
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「信心への懐疑」。
「「信じる」行為そのものを脱落」してみたらどうだろう、とのこと。
禅では「心身脱落」という言葉で、力を抜く、落とすことがとても大切なことを
あらゆる場、時をとおして説く。
(極言すれば禅の教え《禅語》はすべて、この禅の精神、心を説いていると思われる)
つまり、「信じる」ということにこだわらない、
信じているとか信じていないとか、どうでもいい。
「どうでもいい」けれど、
「「信心」の問題を抜きにして「宗教」を考えることはできない」から、
冷めていても「自分は信じている」と信じ、それで「救われる」ことがなくても
「救われなくても構わない」と思うことが「信心」を持っている、信じること。
強くそう感じた。