「弱肉強食」という論理。
人間も自然の存在だから、強い者が弱い者に勝つのは当然、弱い者は強い者に
従えばいい、という考え方がある。
(「強い」「弱い」は、「暴力」「権力」「金力」など「むき出しの力」をイメージさせる。
しかし、いまは何を「強」「弱」とするのかを問わないけれど、ほんとうはそれがだいじ)
人間も自然だといっても、その「自然」には、人類種が長く生存していくための
文化のひとつ、道徳・倫理があって、それに従えば明らかにまちがっている。
学校で教わったということだけでなく、長く生きてきて、真実だと信じる。
(「真理」かどうかはわからないが、「真実」)
しかし、人の世から戦争はいまもなくならない。
プーチンの姿を見ていると、「弱肉強食」信者は遺物だと思っていたら、
いまだ健在だった。
(もちろん彼だけではない。テロをぶっ潰せ!フセインは核兵器を隠しもっているから殺せ!と
戦争は膨大なカネがかかる国家同士のケンカ。勝ち目がないとやらない。
チンピラのように「ヤイ!、テメェ…」と怒ったくらいで始めるわけにはいかない。
しかし、プーチンは始めた。
彼はいちおうチンピラではなく親分なので、自分、ロシアは強いと信じこんだだけでなく、現代はでは
「強い」だけでは世間的《いや国際的》に通用しないから、でっち上げであっても正義、正当性の旗を
掲げなければならないのでこれもプラスし、勝算を確信して戦争を仕かけた。
「テロとの戦い」という「正義」で始めたイラク戦争やシリアやアフガニスタンへの戦争のずっと前、
圧倒的な軍事力の前にベトナムはすぐに降伏するだろうとなめてかかったが思わぬ反撃にあい泥沼化。
で、爆撃、銃撃だけでなく、枯葉剤散布やソンミ村での大虐殺のようなあまりに酷い、卑劣きわまる
ことをやり、国際的な反戦の高まりと自国兵の厭戦気分の増大《士気の低下、精神に異常をきたす者の
続出》もあり、完全な敗北を喫した。
アメリカの「強い」のは「暴力」、兵器だけだった。それに戦争は、いつだって、「正義」の実現を
称して始められる)
そして、人の世に差別もなくならない。
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けれども、アリやカタツムリのように遅々としていても戦争と抑圧からの解放は、
社会全体として見れば、たしかに戦争も差別も減りつつあるばかりか、これからも
人類は生きのび存続していくために新たに全地球的な取り組みとして「SDGs」が
登場してきた。
(というのに、このザマだ)
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子どもや女性、お年寄り、障害をかかえた人たちにやさしくする。
そういう「社会的弱者」と呼ばれる人たちだけではなく、困っている人、誰にも
手を差しのべ、声かけたくなる。
人の心とはそういうものだ。
(他のだいたいの生物は自然である本能にしたがっているといわれているけれど、
人間にも本能はあるけれど、それを制御する「こころ」という自然がある。
だから自殺もすれば、他人のために自ら犠牲になることも厭わない。
人の世の醜悪な、残酷な事実を知ると悲しさよりもむなしくなってしまうけれども、
社会をつくり集団としてしか生存できないのが人間の自然なあり方、状態なので、人間が人類として
これからも存続していくには「良心」、根底、奥底で人を動かすものの存在を信じて疑わない)
『こころの人類学―人間性の起源を探る』 煎本 孝・著
という本を読んだ。
(グーグル画像より)
カナダ・インディアンの狩猟採集民、シベリアでトナカイと暮らす人々、
著者が現地で、短い期間ではあっても直接ふれ合って感じ学んだ、心(こころ)の
ことが書いてあった。
人間の心の起源がどこにあるのか?
人間らしい心はどこから、どうして生まれたのか?
ということを、現に生きて生活しているスタイルが遠い昔からほとんど変わらない
人々の社会を人類学というフィールドから調査し学んだことの報告のような内容で
とても考えさせられた。
と、ここまで書いてきたのはよかったのですが、長くなりそうなのできょうはやめます。
次回、最後の章に述べられていた「人類の進化は不適応なのか」からと、エピローグの
ダライ・ラマ法王14世の仏教の心の二つだけ触れます。