きょう9日は、77年前、戦争でアメリカに長崎に原爆が投下された日。
広島も長崎も、そのときはアメリカしか原爆をもっていなかったら使えなかったけれど、いまは違う。
ずっと昔、そのときどきの原爆使用の可能性、平和の危機度(人類の「持続可能性」の特大指標)を
時計の針であらわし、それを見る人々が「人類滅亡」までの残された時間がごく僅かなことを知り、
迫りつつある危機を実感するというテレビ映像があった。
(時計は、原子爆弾が登場してセットされた。
日本の総人口は去年で1億2550万人くらい。
そのなかの30数名の方が当ブログをお読みくださっているという事実。
(あり得ないような「縁」。
「縁」というものも、前回の記事に書いた「贈与」の一つのあり方だと思った)
ブログを始めてだいぶ長いのでビックリするほど「読者数」は増えた。
(けれども、実際に目をとおしてくださる方は先に書いたとおり)
「だいぶ長いので…」と書いたが、読者になられた方がブログをやっておられたら
その方の読者に私もなった。
そういうことを続けていたので自然に読者数は増えた。
増えてもブログをやめる方が多く、それに自分の障害のこともあり読むのが
負担となり、申しわけなくてもこちらから読者をやめることもあった。
そいうわけで実際にお読みくださる方は、ほどほどの数に落ちついた。
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やめても読者だったので、その方を思いだしては懐かしむことがよくある。
実際にお会いしたことがなくても心にしっかりと残っている。
人どうしの触れあいは、リアル・バーチャル、時間の長い・短いを問わないのだ。
(生身のお姿を全然みたことがなく、どんな方かをまったく知らないというのに、交流《コメントの
有無は関係ない》するのは、私としてはブログが初めてだ)
長くやっていると、病気や事故、体調を崩されてやめられる方もある。
なかにはお亡くなりの方も…。
自分が続けられるのは、続けられる条件があるから。
いつかは続けられる「条件」がなくなり、私もやめる。
個人的なそれが先か(そのときまで)「はてな」が続いているかはわからない。
どっちもある限りは今のところやめないつもり。
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「人生、世界がどうだとかゆっくり、のんびり思い考えているヒマはない。
目の前のなすべきことに全神経を注がなければ、日々の生活自体が成りたたない」
ある愛読ブログの方がお書きになっていた言葉。
その方は、少しでも怠ると生存じたいが危うくなる伴侶に、これ以上はない愛
(というか慈しみ)を注がれ、たいへんな世話をなさっている。
なのに、そのブログはユーモアたっぷりだ。
ご自分を𠮟咤激励するために書いておられる(と私は感じている)が、逆にこちらが
励まされている。
私はよく「人生、世界がどうだとか…」と書くヒマな人間の部類に入ると思うので
その記事にドキッとした。