カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.9.27 いのち (2-2)

前回(2-1)は、

すべての生きものたちに対する人間の責務を実行するには人間の数、人口が

多すぎてはいけない(少なすぎてもダメ。ほどほどがよい。ほかの生物たちとのバランスが

だいじので、デザナの人々は自分たちの世界観にもとづき、産児制限している

と述べた。

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下線のような理念・目的があってのこと。

日本はちがう。

 

じつは、デザナの人々の「産児制限」の話は、(日本の人工中絶における「いのち」の

あり方を考えた)胎児の生命-水子供養「いのち」の個別化という項目の

なかで述べられていた。

     

【引用】「幼くして死んだ子のいのちは、次に生まれたきた子のいのちとは別個のものであり、

中絶した胎児のいのちは、後で生まれた子の命とは無縁だと考えられている。

水子供養の背景には、このような「いのちの個別化傾向」がありはしないだろうか。…

〈人工中絶と間引き〉

日本では人工中絶についての議論はアメリカやフランスのような社会的・政治的・宗教的議論として

展開されたことはない。…

医療技術を含めて、技術全般の進歩が、…いのちといった最も根本的な観念に変化をもてらす

ここでも、技術のあり様が社会のあり方を決めるという「技術決定論」を感じます

 

いのち」の個別化」というと、個々のいのちの尊重という良いイメージが

するけれど、そうではなく、いのちを先祖から子孫へつなぐもの、いわゆる

「いのちのリレー」のバトンではなくなっている。

「いのち」は途切れ、「個別化」される。

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子どもを産むのは生きものとして自然なこと。

ごくまれな例外として、人類存続のため、自分の遺伝子を残すためということも

あるかもしれないが、普通はそんなたいそうなことを考えはしない。

そして、何人うむかは0人産まないことを含めとくにこれといった考えがない限り

「こんなもんか…」とだいたい、まわり(社会、世の中)に合わせる。

 

ほんとうは結婚し、子どものいる家庭をもちたいけれど、いまの日本では生活する

のがたいへんと思いこみ、二の足を踏む人たちが多い。

科学技術の進歩で、結婚しなくても家族をもたなくても、やりたいこと、生きがいの持てる、

楽しいことはいっぱい増えた)

それでも好きな人とはいつもいっしょにいたくて結婚したのはいいが、(避妊=

産児制限」していても)妊娠することもあり、しかたなく堕胎することもある。

前回、「われわれ日本人は、デザナ族のように説明する方法を持たないばかりでなく、

自らがとっている行動についての洞察がゆき届かなくなっていると述べられていたのは、

デザナ族の産児制限は彼らの世界観にもとづいてなされていることに対し、

日本人のそれは個々人まかせということ

 

          


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ところで、デザナの人々は太陽を崇拝している。

太陽信仰。太陽は神なのだ。

(この点は、日本をはじめ地球上のほとんどの人たち、民族とまったく同じ)

 

そのうえデザナの人々は、地球上のすべての自然物、現象には「いのち」があり、

その源は太陽=神と信じている。

であるから、地球におけるすべての事物は太陽、すなわち神のおかげであり、

恩恵はすべての事物に平等に分けあたえられなければならない

太陽エネルギーの正当な配分」は人間のいちばんの義務なのだ。

 

とうぜん、

人間が増えれば人類は太陽を独占しようとする。

だから、

太陽エネルギーの正当な配分」のためにデザナの人々は産児制限する。

人口を抑制するのだ。

すべての生きものたちに対する人間の責務を実行するために、産児制限するのだ。

日本が「経済成長」維持、増進のために「少子化」をうれう話とは次元が違う)

 

          


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もちろん、

こういうことが可能なのは何よりデザナ族の人口が3500人とごく少ないことだった

                   ↓

【引用】「デザナ族の場合、個人の価値観は集団の価値観と一致している。

彼らの価値観は人間をも含む広い意味での環境を総合的に見渡す世界観によって示されている。

理念や主義が個人の行動の長期にわたる規制として働くには、

それが人々の生活全体と広く深く結びついていなければならない。

自分を取り巻く環境の全体をできるだけ変えないことを目的とする彼らの価値観が、

個人の性行動や夫婦が自分達の子供を少しでも多く持ちたいとする欲求を抑えているのである

 

当然、3500人のうちには、(前回のべたような)人類が生物系統図でいちばん上に

おかれているから人間は自分を律しなければならない、また(上述のような)

自分を取り巻く環境の全体をできるだけ変えないという世界観に異を唱える

者も、少数ながらいるにちがいない。

 

しかし、3500人くらい少ない集団では、少数意見もていねいに扱い、ねばり強い

話しあいの末、満場一致ではなくとも、「個人の価値観は集団の価値観と一致

ということはあり得るとおもった。

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「あり得るとおもった 」けれども、77億人もの人類には絶対「あり得ない」。

過去をふり返ればどこの国でも血ぬられた歴史をもち、現在にいたっても対立、

分断、戦争をくり返し、差別、格差に気づいても気づかぬふりをする人類。

 

こんな現状みていると早いか遅いかの違いだけで、人類破滅のシナリオを信じる

けれど、デザナ族のような人々がいると知って救われた気がする。

 

 

 

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                              ちりとてちん

 

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