中村桂子さんの本は「いのち」についてとても深く考えさせる。
自分の「いまあるいのち」「いのちを続けていくこと」が生きものにとっての
根本的な原理でだいじなことだという。
だけど、人間だけが「いのちよりだいじなもの」がある、という幻想を抱く。
なにかにいのちを賭けて死ぬ人がたえない。
(でも幸いなことに、大多数の人は「いのちよりだいじなものはない」とわかっているので、
人間はここまで続いてきた)
そんな根底に立ちかえり「”生きている”を見つめよう」と著者はいう。
いのちをだいじにしようと中村さんはいう。
『こどもの目をおとなの目に重ねて』 中村桂子・著 を読んだ。
(グーグル画像より)
「生命誌」というのが著者の専門。
前にも読んで記事も書きましたがともかくていねい、わかりやすい言葉で書かれています。
これはエッセイ集のような本で、心の琴線にふれる話がいっぱいなのですが、
南米のウルグアイ大統領だったホセ・ムヒカさんのことを書かれていた文章だけに触れます。
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【引用】
「〈ムヒカ流生きかた〉
社会のしくみを(客観的な状態として)「貧困」をなくすように変えることは不可欠である。
しかし、それと同時に、質素を好むというムヒカ流生きかたをよしとする価値観をもつことで、
社会を変えていくことが大事だと思う」
「〈豊かさの中の貧困〉
社会としては豊かになっているのは事実なのだが、豊かさの中での貧困はより面倒な問題である。…
物々交換の面倒さを超え、お金を考えだしたことで物の動きはスムーズになった。
しかし、お金のもつ合理性に惑わされた私たちは、ここでの交換に心を伴わせることを忘れてしまった
のである。お金だけが独り歩きをし、…
働く能力や立場による収入の差があることは納得できるが、現状の格差は、心が働かないために
生まれているものであり、異常である」
(注:「」〈〉()太字太字はこちらでしました)
つよく考えさせられた。
「質素を好むというムヒカ流生きかた」、
「豊かさの中での貧困」、
「現状の格差は、心が働かないために生まれている」
みんな、いのちをめぐってのこと。
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「格差」とよくいわれる。
そのときの「格差」は、たいていは(正確にいえば)「経済格差」のこと。
人間は、この地球に生まれたときから気の遠くなるほどの長いあいだ、
(ほかの生きもの同様)原始的だが平等な社会をつくって生きてきた。
お互いが平等、対等でないと、力をあわせないと生存そのものができなかった。
「自分が食っていき、子孫を残し、人間が続いてゆくだけで精いっぱいだから…」
と考えると、食うものに余分ができ、貯め、私有(独占的に所有)することが可能と
なり、「持つ者」と「持たざる者」とに分かれ、平等な人間関係がくずれたとき、
「人間は人間になった」といえるのかもしれない。
それは「経済的な不平等」が生まれただけで、人間存在そのものが不平等になったというものでは
決してないと私は思う(「アルタミラ」の洞窟壁画など、平等な原始社会にあってもすでに
文化の一つ「芸術」がめばえていた)。
しかし、支配者(金もち)と被支配者(貧乏人)とに分かれてからは、それはあらゆるさまざまな
「不平等」をもたらし、現代になっても続いている。
「セレブ」という言葉がはやるようになったのはそれほど古くはない。
昔もごくごく一部の大金もち(親ゆずりの身分制的なものがほとんど)はいたが、現代は信じられない
くらい経済的格差がひろがっている、という(「隣の芝生は」ホントに「青い」のだ)。
私は働いているときその「青さ」をあまり気にしなかった。自分の給料は世間なみの額だろうと信じる
めでたい人間だった。
ほどほど食えればよかったので、金もちになりたい(ときには思っても)とは思わなかった。
しかし、現代の、これほどの経済的格差はぜったい変、オカシイ、間ちがっている
異常だ!
「現状の格差は、心が働かないために生まれているものであり、異常である」
この世に生まれた人は、ひとり残らず、ほどほどに食えるべきである。
食えなければならない。
「社会としては豊かになっているのは事実なのだが、豊かさの中での貧困はより面倒な問題である」
ではあっても、「社会としては豊かになっているのは事実」なのだから、まずは、
ごくごく一部の、いわゆる「超富裕層」は「超」分だけでも(社会に稼がせてもらったのだから)
社会に還元すべきだ(と、多くの人が思っているだろうことを私も思う)。
まず、いのち。すべてはいのちあってこそ。