カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.7.4 「村はみんなの「まぼろし」ー(石北本線・奥白滝信号場)」

今日は最後の話、「村はみんなの「まぼろし」ー(石北本線・奥白滝信号場)」

 

いわゆる「平成の大合併」。

形としては対等な「合併」という立場をとりながらも、

実質は大が小を飲みこむ「吸収」に近く、近隣のより大きな町といっしょにされ、

いとも簡単に消え去った白滝村の無念。

 

「(住民投票」を行い合併の是非を問うことは、小さい村にとっては村を二分する危険がある

それでも村の地方自治を護ろうとする住民もいた)

確かに、間接民主制(議会制民主主義)においては、選挙で選ばれた首長や議員に、

行政や政治をまかせるというのが原則である。

そして、本来は彼らがすべき判断を、住民に丸投げするがごとき住民投票は、議会制の軽視や否定、

あるいは「衆愚政治」につながるという論理を主張する人もいる。

(しかし)本来、地方自治における民主主義の基本は、直接民主制にこそある。

住民投票を呼びかけた人は言う)白紙委任じゃないんです、議会っていうのは」

「都会なら、浮動票や無党派層っていうのが必ずあるでしょう。

それはね、誰に投票しようが生活に大差ないから。

ところが、こういう田舎は、浮動票っちゅうのが一票もないです。

都会と違って、選挙結果がすぐ形になってあらわれるから」

そもそも政治や行政の大切な機能とは、みんなから集めた税金を、何にどう使うのかを決める

富の再分配」だが、都会だと見えづらいそのことが、「村」ではよく見える。

(真の「住民本位」の目線とは?)

清く正しく美しく、無色透明な「住民」など一人もいないといえばいないのが村なのだ。

住民という住民すべてに「色」がついており、いったい、誰の立場に立てば「住民本位」ということに

なるのか、そこが難しい。…

えてして都会においては、「住民と行政の距離」が遠すぎることが問題として語られるが、

逆に「住民と行政が近すぎる」がゆえの弊害も確実にあるということだった。

それが「村」というものであり、人間という存在自体が抱え込んでいる本来的な難しさ…。

大庭裕二さんという、白滝村唯一の土木建設・建築、その他なんでも請け負う会社の社長であり、

村の名士として村民の誰からも信頼の篤い人がいる間は、彼のリーダーシップ(村長より断然強い)

により村はまとまり、村政は安定していた。が、突然、亡くなった。

その突然の死が、白滝の「民意」を流動化させ、のちに村を二分することになる村長選や合併騒動の

きっかけになった)

戦後50年、日本は公共事業によって発展し、地方経済は公共事業によって支えられてきた。

また、公共事業が、都市と農村の格差を埋め、均衡のとれた日本列島の発展に寄与してきた。

そのことの意味とは、もちろん道路や公共施設の建設が、地方の雇用を創出し、物流を促進し、

景気を高揚させたという側面も大きかっただろう。

しかし、それ以上に、裕二さんのような土建屋が、腹一つで地域に「富の再分配」を行い、そ

れによって地域を一つにまとめ上げるリーダーの役割を担ってきたことをも意味する

 

 

          石北本線 奥白滝駅(廃駅)! - 大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

                  (グーグル画像より)

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ホントによくわかり、しみじみと伝わる話だった。

 

(私の故郷は、バカな《という言葉を、前置詞のように「平成の大合併」に付けて私は呼ぶ》

平成の大合併」にいち早く手を挙げた自治体だった。

故郷は「郡」の中心のような町で、周りの五つの町といっしょになったが、それまでの慣れ親しんだ

郡名が合併後の新しい自治体名になったので、バカもちょっとマシに感じた。

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バカな「平成の大合併」は、いろんなところでいわれているように、「アメとムチ」で強行された。

地方自治」という《個人でいえば人権》大義に真っ向からは逆らえない国が、地方の政治を支配

しようとすれば《「天下の宝刀」》地方交付税をムチにし、合併すればこんな有利なことがあるよと

アメをなめさせる。

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景気のよいときは、民間は自然にわきだす欲望にしたがって「もっと儲けよう」と投資、お金を

つぎ込んだ。バブルが生まれた。

そして景気が悪くなると、バブルははじけ、すべては「自業自得」「自己責任」で終わった。

ただの「民間」ならそういうストーリーの結末も、資本主義社会では当然だ。

 

だが、「公」の総元締めの国が民間と同じであってはならない。

なのに…

 

景気のよいときには、国も民間と同じように「さまざまな事業をしましょう」「使ってこそのお金」と

地方自治体に、どうでもよさそうな、ムダとしか感じないような大型レクレーション施設建設など

次々と推奨した。

バブルに踊ろされた自治体は、それがはじけると財政は危機に陥った

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ところが国は「推奨」をしただけで、何らかの事業をするかしないかは当時の地方自治体が決めたこと

だから、国に責任はないとする

《パソコンの主体者はその持ち主、個人。そのパソコンで何か新しい機能を追加しようとするとき、

「トラブルが起きても責任は負いません」といわれるのと何と似ていることか》

そうはいっても、国はたくさんの地方自治体を抱えて成り立っているので何とかしなければならない。

そこで合理的な方法、「合理化策」として、地方自治体の縮小整理を思いついた。

それがバカな「平成の大合併」政策。→と私は思う。

 

それは相が小泉のとき行われたが、「郵政の民営化」、多くの生活に密着したさまざまな事業が

「安上り」「合理的」の名のもとに「民営化」「民間委託」された。こういう流れの中にバカな

平成の大合併」も位置づけられるのだろう。

こういうバカをやった「小泉純一郎」「竹中平蔵」を忘れない)

 

           

                  (グーグル画像より)

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引用のなかの二つのことが強く胸に響いた。

 

「都会なら、浮動票や無党派層っていうのが必ずあるでしょう。

それはね、誰に投票しようが生活に大差ないから。

ところが、こういう田舎は、浮動票っちゅうのが一票もないです。

都会と違って、選挙結果がすぐ形になってあらわれるから」

 

戦後50年、日本は公共事業によって発展し、地方経済は公共事業によって

支えられてきた。

また、公共事業が、都市と農村の格差を埋め、均衡のとれた日本列島の発展に

寄与してきた。

そのことの意味とは、もちろん道路や公共施設の建設が、地方の雇用を創出し、

物流を促進し、景気を高揚させたという側面も大きかっただろう。

しかし、それ以上に、裕二さんのような土建屋が、

腹一つで地域に「富の再分配」を行い、それによって地域を一つにまとめ上げる

リーダーの役割を担ってきたことをも意味する

 

前半を読み、私たちはあまりに気楽に、気安く「住民本位」というけれど、

(私はいまほど政治を遠くに感じることはこれまでなかったので言わなくなりましたが、

昔はよく口にしました

それがどれほど難しいことかを考えなければならない地域が存在することを思った

 

無色透明な「住民」など一人もいない」けれど、白滝村のような、

ほとんどの住民の顔を知っていそうなところでは、その人の「色」がわかる。

想像がつく。

「わかる」「想像できる」ことからくる面倒くささ、その重さ…

(「第三の道」がなく白黒に分ける、賛成か反対の二分。

二分の「しこり」、弊害は、規模の点で大違いでも質はまったく同じことを

トランプが出馬するようになってからのアメリカ大統領選挙に見る。

白滝村の村長選、合併騒動と何ら変わらない)

 

後半を読んで、田中角栄を思った。

田中角栄は「ウン悪く」ロッキード事件で捕まった。

彼は捕まったが、法に触れることしても逮捕されない、罪に問われない政治屋

現代ではゴロゴロ、いっぱいだ。

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終わりに

 

結局のところ、住民投票をしなくてよかったのではないかと私は思い始めていた。…

吉田氏(村を二分した村長選で当選した新村長)の「白黒つけない」という住民投票実施派は

何とか多数を制したが、合併賛成派の村長はうだうだ住民投票を引き延ばし、合併にこぎつけた)

判断は、やはり行政の長の”大人の判断”として妥当だったのではあるまいか

私もそう思った。

 

 

 

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                             ちりとてちん

 

 

 

 

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