「(「科学的知見」に基づいた防除技術や施肥技術の導入)
私は、「施肥設計」(作物に応じた科学的な肥料のやり方を事前に考えること)や
「発生対応型の防除」(現実に発生した病害にのみに対応した防除方法を施す)という
農家にとっては常識ともいえる概念を…知らなかったし、現代ではコメの「おいしさ」を理化学的に
計測でき、とりわけ「タンパク値」は農家のウデ(施肥技術)によって左右されるがゆえに、
政策上のモノサシとしてすでに利用され、農家やコメ産地がシビアな競争に晒されているという
現実をまったく知らなかった。…
有機農業は全体のわずか1%にも満たず、99%以上の農家がそうではないこと、
さらには有機農産物が有機農産物であるだけというだけで「おいしい」とは限らず、
化学肥料を使った方が、むしろ品質のコントロールがしやすいことなど、どれ一つとっても、
それまでの農業に対するイメージをくつがえすような新鮮な驚きだった。
…
(農業と現代科学は車の両輪)
明治期までは稲作に不向きとされた寒冷地の北海道において、今や本州の温暖な気候風土に恵まれた
コメ産地に負けないくらい、「おいしいコメ」の安定生産が可能になった…
ひとえに農業試験場を中心とした高度な育種技術(品質改良)の成果と、農業改良普及センターや
JAを中心とした最新の栽培技術の普及・指導、…おいしいコメづくりを実践してきた北海道の農家の
たゆまぬ努力の積み重ねに他ならない。
…
(「化学肥料の功罪」について、農業技術改良普及センターの職員さんの言葉)
「化学肥料は人工的に合成されたものだから…人体に悪いのではないか、というイメージがありますが…
有機肥料だって土壌中の微生物によって分解され、大部分は無機物としてして作物に吸収される…
化学肥料となんら変らないんですよ。…
悪影響があるとすれば、人体ではなく環境です。
化学肥料を多投しすぎると、過剰分が地下水や河川に流れ込んで…」
→化学肥料を撒くのは「ほどほど」が大切
…
私たちは、往々にして、物事を「白か黒か」(これは安全・これは危険、これは体にいい・悪い、
これは環境にいい・悪い)といった単純な二分法で判断しがちである。…
しかし、この5年間、鈴井さんや服部さんらと何度も話し合いを重ねるうちに、
1%の有機農家(「土づくり」という点で優れている)と比較して、
クリーン農業の「不徹底」ぶりをあげつらっても、あまり意味はないと思うようになった。
スーパーやコンビニ…99%の農家が実践できないような技術では、まったく意味がないからだ。
…
(「食管法」→日本では「農業保護」と「生活保護」が混同され続けてきた)
「農家はすべて平等だ」「農家はみんな善良だ」「額に汗して働く農家はみな美しい」などといった
悪しき理想主義、悪しき平等主義のもとでは、農業の大きな発展は見込めない。…
ーーーーーーーーーー
北海道産のブランド米「ななつぼし」や「ゆめぴりか」はテレビでよく聞くし、
「魚沼産コシヒカリ」や「あきたこまち」はもっと前から聞いていた。
スーパーに行ったとき、眩みそうになりながらも、ときどきは陳列された商品を
見る。見て、その種類の多彩さに圧倒される。コメもそう。
「多くのブランド米があるもんだ。どこが他と違うのだろう?」
(消費者のためには選択肢が多いことはありがたいけれど、正直、これほど多くなくてもいいの
だけど…、たいして違い、差があるわけではないだろうに…。
まあ、ちょっとは違うのだろう《異性の好みに「タイプ」があるようなもんだろうか》)
ただの標準米と比べれば、わざわざ華麗な名前をつけたブランド米。
かけたお金と手間ひまが違うので、値段も高い。
高いからウチでは買わない。
買わないからわが家では食べたことがない。
(けれど、旅先の新潟や山形で「コシヒカリ」や「ひとめぼれ」「はえぬき」というのを食べたが
格別、美味しいとは感じなかった。
けれど、ブランド米なので「美味しいはず」。美味しく感じなかったのは、自分の食べ方が悪いか、
味覚が鈍いか、そのときの体調のせいだったのだろう)
(グーグル画像より)
ーーーーー
私も「施肥設計」や「発生対応型の防除」、「現代ではコメの「おいしさ」を
理化学的に計測でき」ることを、まったく知らなかった。
(「おいしさ」というものは「好み」とはまったく違うのだろう。
「好み」がその場・その時の感情に支配されやすく、個人的で主観的なものに比べ、「おいしさ」は
「理化学的に計測でき」る普遍的なものらしい。
同じ品質のコメでも「美味しく」食べるために、釜やご飯の炊き方を工夫する。人はスゴイ!)
「農家やコメ産地がシビアな競争に晒されている」現実も、
「有機農業は全体のわずか1%にも満たず、99%以上の農家がそうではない」
「有機農産物が有機農産物であるだけというだけで「おいしい」とは限らず、
化学肥料を使った方が、むしろ品質のコントロールがしやすい」ことも。
そうか!
いやそうだ!
(有機農業のような、上述のようなことではあっても土壌によりいいことは確かだし、先進的な
より高みを目ざしての「わずか1%にも満たず」の極く少数派でありはしても、それはそれで
すばらしいことに違いはない《けれど、高価なブランド米や有機米はやっぱり貧乏人は買わない》
「99%以上の(普通の)農家が」できるよう、北海道はJAも自治体の農政も一丸となり、美味しい
コメ作りを取り組んでいるという。これはもっとすばらしいこと。
スーパーなどの店頭に、誰でも手軽に買える安価な美味しいコメが出回ること)
ーーーーー
60年もの昔、学校の社会科で習った「日本の農業」。
覚えていることに、北海道ではジャガイモ、てんさい、ビートなどの畑作が主で
米作りは寒冷地の気候のため向いていない、があった。
それが、いつの間にか有名なコメの産地になっていた。
「ひとえに農業試験場を中心とした高度な育種技術(品質改良)の成果と、…
おいしいコメづくりを実践してきた北海道の農家のたゆまぬ努力の積み重ねに
他ならない」
私が読んで知ったのは「北海道のコメ」の話だった。
またコメだけの話でもないけれど、生きていく上で欠かせない「食」。
あまりに日常的、生活に密着しているので慣れてしまって、食前の動作、
合掌という作法も(少なくとも私は)形式的になっていることを反省しなければと
思った。
私のような消費するだけの者は、生産にたずさわる人たちのことを、合掌のときは
(その都度そこまではできなくとも、たまには)想像してみなければならないと思った。
(グーグル画像より)
〈オマケの話〉
「新十津川」はウィキペディアに「1889年(明治22年)8月に起きた奈良県吉野郡十津川村
での十津川大水害の被災民のうち2489人が離村して[1]トック原野に入植し新十津川村と
称した。その後、1957年に町制を施行して新十津川町となった」とある。
本では著者はその奈良の十津川村から入植した人の子孫を取材し、話は「普通の農家」に
できること、という農業、コメ作りが主題の話だった。
最後にその子孫にあたる人が奈良の山奥、十津川村を訪ね、いまは橿原市に在住の親戚に
初めて会い、感動的なもてなしを受ける場面が描かれていた《そのときの情景には、
読者のこっちも思わずもらい泣きしそうになったほど》。
(グーグル画像より)
子孫は自分はもちろん、親も新十津川生まれの育ちで、これまで、それがあたり前なので
自分のルーツというものに思いを馳せたことさえなかった。
が、自分という人間の存在が歴史的なものであることを深く感じたのだった。