♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目の方)
隠居であればこそ、本がゆっくり読める(時間がない方、働いている方には、ほんとうに申しわけないです)。
読書していると、ハッ!そうだったのか、とおどろくことがある。
いま読んでいるのは、「現象学」とか「構造主義」という、名前だけは聞いたことがあるけれど中身はまったく知らない哲学。あるとき、きっかけがあって知ってみたくなった。
哲学といえばむずかしそうなイメージがうかぶ。が、そんなことはない。ようは
「人生どうあるべきか?」「世界は何からできているか?」「人はどうやって認識するかに答えようとするものだ(ま、こういうのを考えても腹の足しにもならんけど)
- 若いころ、読書の趣味なんかまったくなかったけれど、井上靖の『しろばんば』とヘッセの『車輪の下』だけ読んだことをよく覚えている。数えるほどしか読んでないから覚えているのだろう。ところでなんでこれだったのかは覚えてない -
(こまかく言えば二つは違うし、その違いもいろいろあろうが、共通な基本的態度の一つは)ある物事を決めつけないで、いったんカッコでくくる、くくってどこかに置いておくこと。ようするに、自分を一時保留するのだ(「保留」といっても、いつでもどっちつかずの「中立の立場」に立つというのでもない)。
なるほど。「自分はカクカクシカジカ…思う(考えます)」というとき(それを言う・言わないは別にして)、ともかく、相手・他人の思いや考えをきちんと受けとめるのがたいせつだということ。
私は現象学者とか構造主義者になるのではないので、イロハくらいがわかれば満足。これいじょう詳しく知ろうとは思っていないが、なんでも「決めつけがち」な私にはほんとうによい読書(話)だった。
その本は題名は『愛の現象学』(言っておきますがHな本ではありません)という。見るなり妻は言った。「ふーん、哲学…。ぜんぜん興味ないわ」。
(ヘッ!そうかい)現象学とは何の関係もないが、男女の違いは歴然と存在する。長い間それがわからず、ずいぶん夫婦ゲンカもしたが、その違いは読書傾向にもあらわれているのかな。
われわれの場合、いっしょなのはホトケさんの本くらい。でも、それだけでいい。
「構造主義」的なみかたをすれば、私にはこの画像は
「白い雪をかむったピンク色したサザンカ」であるが
別な人にはちがうふうにみえているのかもしれない。
「わっ、きれい!」と思っても、別な人はきたない
とまでは思わなくても、あまりきれいではないの
かもしれない。
共感は人を結びつけ、いい気持ちにするからだいじだけど
「見て見て!これ、きれいでしょう」
とあまりしつこく言うのは気をつけよう、と思った。