♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目の方)
前回も書いたように、最近の脳科学の進歩は著しい。それを応用した医学もそうだ。
私もおかげで助かった。つくづくありがたいと思っている。
殊勝にも、「なにくそ障害なんか」とも思っている。ところが、日常の生活でちょこちょこミスをおかすので、あんまりひどいとそばから「脳かち割って中を見たい!」とコメントされることがある。
脳。
たびたびテレビにも出てくるのですっかりおなじみになった、ヒトの頭に乗っかっているタコのような形の「脳ポトグラフィー」という装置がある。脳のどこの部位が働いているかわかる(働いている、つまり興奮しているところが赤くなり、そうでないところは青い)。かってテレビでみたオウム(鳥のほうじゃない)が使っていたようなモノにも似ており、ちょっと気持ちわるい。まだ、頭にとりつける動作が面倒くさい感じだが、近未来、改良されてコンパクトになり(頭をかち割られず)脳内、頭の中がくまなく見られるだろう。
まさにSFの世界が現出。こわい話だ。
ウソがつけなくなる。それはたいへん困る(私は困る)。
頭の中がまる見えならば、考えたり思っていることもまる見えだ。ウソはすぐに見破られる。偽装表示やオレオレは大きく減り、犯罪も大幅に減少するだろう。それはいいんだけど…
同時に、根本的にだいじなことがなくなりそう。
(「四月バカ」という習俗、ウソの公認は世界中にあるらしい。それほどウソは人間に本質的なのだ)
だからウソがつけない社会は、おそろしい。人間を否定する。ウソを擁護するのじゃないけれど(ウソがよくないのは当然だ)、ウソをつけるのは、つく側とつかれる側が信頼で結ばれているからである。信ずるという関係にあるからである。ウソがつけないというのは、そういう関係にないということである。そういう関係をこわすこと。
話がとぶが…
好きなサスペンスでは、最後のシーンはたいてい決まっている。「真実(事実)は明らかにしなければなりません。それが刑事の仕事です。たとえ、かなしい結果になっても…」。
そこで、彼らは捜査と、その裏付けに奔走する。やがて真実(事実)にたどり着き、それが暴かれる。
でも、そこまで真実(事実)っていうのはだいじなのか?
それに「事実」はいつでも「真実」なのだろうか?
ウソはいつでも「真実」の逆なのか?
ウソがつけなくなると想うと私はゾォーとする。息ができなくなりそう。