カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

カメキチの目(2014.2.27 ウソは空気みたいなもの)

 

  ♭ おたずねくださり、ありがとうございます 

  

 (ブログパーツUL5人目の方)

 

 前回も書いたように、最近の脳科学の進歩は著しい。それを応用した医学もそうだ

 私もおかげで助かった。つくづくありがたいと思っている。

 殊勝にも、「なにくそ障害なんか」とも思っている。ところが、日常の生活でちょこちょこミスをおかすので、あんまりひどいとそばから「脳かち割って中を見たい!」とコメントされることがある。

 

 

 脳。

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 たびたびテレビにも出てくるのですっかりおなじみになった、ヒトの頭に乗っかっているタコのような形の「脳ポトグラフィー」という装置がある。脳のどこの部位が働いているかわかる(働いている、つまり興奮しているところが赤くなり、そうでないところは青い)。かってテレビでみたオウム(鳥のほうじゃない)が使っていたようなモノにも似ており、ちょっと気持ちわるい。まだ、頭にとりつける動作が面倒くさい感じだが、近未来、改良されてコンパクトになり(頭をかち割られず)脳内、頭の中がくまなく見られるだろう。

 まさにSFの世界が現出。こわい話だ。

 

 ウソがつけなくなる。それはたいへん困る(私は困る)。

 頭の中がまる見えならば、考えたり思っていることもまる見えだ。ウソはすぐに見破られる。偽装表示やオレオレは大きく減り、犯罪も大幅に減少するだろう。それはいいんだけど…

 同時に、根本的にだいじなことがなくなりそう。

(「四月バカ」という習俗、ウソの公認は世界中にあるらしい。それほどウソは人間に本質的なのだ)

 

  だからウソがつけない社会は、おそろしい。人間を否定する。ウソを擁護するのじゃないけれど(ウソがよくないのは当然だ)、ウソをつけるのは、つく側とつかれる側が信頼で結ばれているからである。信ずるという関係にあるからである。ウソがつけないというのは、そういう関係にないということである。そういう関係をこわすこと。

 

 話がとぶが…

  好きなサスペンスでは、最後のシーンはたいてい決まっている。「真実(事実)は明らかにしなければなりません。それが刑事の仕事です。たとえ、かなしい結果になっても…」。

 そこで、彼らは捜査と、その裏付けに奔走する。やがて真実(事実)にたどり着き、それが暴かれる。

 でも、そこまで真実(事実)っていうのはだいじなのか?

 それに「事実」はいつでも「真実」なのだろうか?

 ウソはいつでも「真実」の逆なのか?

 ウソがつけなくなると想うと私はゾォーとする。息ができなくなりそう。

 

                               ちりとてちん

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