♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目のかた)
『フライド・グリーン・トマト』という映画をテレビでみた。
み終わって、しばらくは動けなかった。こんな映画に出あえたことが、嬉しい。
これはアメリカ映画。アメリカの映画といえば「パブロフのイヌ」(その言葉を聞いただけで反応する)式に、私の脳ミソは「ハリウッド」(あと「ディズニー」、「西部劇」と続きはするが)とくる。テレビのCM ではこういう地味なものはされないらしい。で私は、ハリウッドではアクションもの・パニックもの・お化けもの(ホラーのこと)しか作らないのかと思っていた。
『フライド・グリーン・トマト』が、そのハリウッドの映画になるのかどうかは知らないが、ともかくアメリカ映画のすごい力を感じた。この作品がアカデミー賞(または、ほかの映画賞)候補になったのかどうかも知らないが、私が選考委員だったらきっとあげたに違いない。
(もちろんアカデミー賞的な賞賛はどうでもいいのですが、そうは言ってもやっぱり話題性があればたくさんの人が観るでしょうし、これはひとりでも多くの人にみてほしい作品です)
『フライド・グリーン・トマト』は、映画に詳しくない人でも、「映画」というもののすばらしさ、そのみごとな造り・巧みさにはまってしまう。私はそうだった。
原作は小説だろうか。本を読んだわけではないのに言うのはナンだが、物語・ストーリーの展開だけなら言葉だけですむものを、映像と音楽の助けを借り、それらを構成・配置、演出して感動をあたえる映画のハーモニーのスゴさに驚いた。
『フライド・グリーン・トマト』は、アメリカ社会の現実と、その中でしか生きていくしかない人々の姿を、ある一つの物語として描き出していた。登場人物たちのそれぞれの生き方。それは、ほかの誰にでも在りうる(あなたにも私にも)。「ある人」において、その人の生と社会が織り合わさって、一度だけの物語が創られるのだ。
「世の中には醜いことがいっぱいあるが、同じ数だけ美しいこともある」ことを、映画は教えてくれる。
『フライド・グリーン・トマト』は総じて「笑わす」がその「笑い」はいつしか「涙」に変わる(チャップリンや「寅さん」みたい)。
どちらかといえば、基本的には人生はカナシイものなのである(と私は思っている)。が、もっと「基本的には」人生はオカシイものなのである(と私は思っている)。だから、泣いて、そのうち笑う。
この映画は、そういう当たり前のことにあらためて気づかせてくれた(こんなつまらん評より「百聞は一見にしかず」)。
家でみた映画だったが、終わったらテレビに向かい拍手しそうになった。ほんとうにいい映画だった。何かトクした気持ちになった。
「折り目をちょっと変えるだけで動きにも表情にも変化が出るヨ」
と、ていねいに折りながら妻が言っておりました。なるほど!
ところで、来年の干支は“馬”。
年賀状の図案モデルに、どこかで馬を見てこようと思いました。が、
わざわざそんな苦労せんでも、この折り紙の馬がいいね。