♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目のかた)
「この歳にならないと、わからんもんね」。この前、妻がふと言った。
そのときのそれが何だったのか?すぐにピンと思い出せない(スマン)。が、そういうことはつねづね私も感じているところであり、「人生のチョイ先輩」として、成功した話(はなかったか)・失敗談・恥ずかしい話などを、若い人が何か感じてくれればいいと思い、これまでも何度か書いてきた(80・90の大先達からは笑われたりお叱りを受けそうだが、いまはいまの歳の男で、障害者でもあるカメキチとして、書いている)。
ところで先日、私はふと「この歳にならないとわからん」ということが気になった。
で、しばらく考えた。
「そりゃー、人はいつだって、その歳で感じたり考える以外ない」。時間枠・年齢枠をとび出すなんてできっこないのである。だから、トキが経って、あとになってから、「ああすべきだった」「こうすりゃよかった」となげき後悔するのはしかたない。
(それがイヤなら、精っぱい、イマ・ココ(自分のいるところ)をだいじにする以外ない)
だが、誰もが「あれは失敗だよね…」と言っても(自分でもそのことは認めていても)、その体験者は他ならぬ“私”であり、その“私事”はこれからの私の生き方の中でどのようにでも変化する。変えられるのだ。
若いときは若いがゆえにできることがある。若いがゆえに感じ、はまってしまうこともある。度をはずし、失敗することもあるだろう。けれど、「それが“青春”♪」なのだ(私なんか“青春”といえばすぐ“蹉跌(サテツ)”となる)
そもそも「ああすればよかった」とか「こうしたらそうなったかも…」といろいろ想ってみるのは自由だが、何を選択すればよかったのか・最善だったのかはわからない。「後悔さきに立たず」(ついでに「神のみぞ知る」)。
で、「最善」と言うが「最善」とは何だろう?(「神のみぞ知る」なんて誰でも口にするようなことを言ったが、それは神の存在を信じている人だけの話)それは「幸福」と同じで、最善だったと信じれば最善なのではなかろうか(もちろん自己にはキビしく採点し、68パーセントくらいだったかなもアリである。でもその場合は68点に幸いアレ!)。
精いっぱい、イマ・ココをだいじにしていたら、何が「最善」ということはどうでもいいのではないだろうか。
ここまで書いて、ふと気づいた。どうやら私は大きな勘ちがいをしているらしい。
彼女の「この歳にならないと、わからんもんね」とは、ここまで歳を重ねないと見えてこない、味わえないモノ・コトを言っていたのだった(すまんすまん)。
同じ風物でも、同じ本でも物語でも、前には感じられなかったものが感じられたり、新たな発見をしたり、別なみかたができるようになることだった。
そう思うと、若い人(ましてや子どもが)が死んだという話・ニュースはやりきれない。彼・彼女が生きていたら、(少なくとも)私くらい長生きしていたら、と思うとやりきれない。
プ~ン プ~ン プ~ン… 写真をみているだけで匂うでしょう。
香りは、き(聞・聴)くもの、とも知りました。
それに、こんどはじめて知ったのですが、金木犀って二度咲きするらしいですね。10日前後して、同じ樹がまたステキな匂いをまいてくれました。
金木犀、ありがとう。