カメキチの目
「山中歴日無し」を、若いとき聞いていたら
「何を戯(たわ)けたことを…」
と思っていたかもしれない。
(名言・格言は、知ったときの個人の状況によって、受けとり方は違う)
「山中歴日無し」の記事を書いているとき、
人にとって「時間」「時」というのは何?
とあらためて感じた。
こんな疑問は多くの人が、いろいろな折に
ふと持つだろう。
(とくに人生の「転機」といわれる区切りのようなときには)
「自分は時間をどう過ごすか?」
つまり、どう生きるのか?
(歳をとっても迷うけれど、若いときほどではありません。たぶん、
時間が残り少なくなってきているからでしょう。「今さらもがいても…」
という諦念が「良い」につけ「悪い」につけじんわり襲ってくる→
私の場合は)
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「暦日」。こよみ(カレンダー)の日にち。
山の中ではそれがない、という。
「山」というのは、老いた松が生え、そばに枕に
なる石がなくてもいい。
どんな山でもいい。
山ではなく、海でもいいのだ。
山や海。
悠久なる大自然に人の世の「時」を対置してみる。
すると、それらの前ではあまりにちっぽけな自分を
思う。
(技術がどれほど進んでも、人間のちっぽけさにまったく変化はない、
ということを最近読んだ本で強く感じた。
その本に書かれていた。
↓
萩原朔太郎がパリに憧れた心情の深さについて。
それは、現代のように飛行機に乗って気軽にパリには行けなかった遠い昔の時代。
だからこそ抱いた《「抱けた」と言うべきか》ものだった。
「憧れ」はかないにくいものならば、かなわぬ思いを想像で満たそうとし、
ますます深くなる。
変わって現代。パリは近くなった。電波によっても結ばれ、飛行機ならば12時間
30分で着く。
しかし、日本とパリとの距離、空間が縮まった《無くなった》わけではない。
時間が《飛行機によって》縮まっただけのこと。
現代日本人の多くは朔太郎の心情は実感できないのかもしれない。
《貧乏でも行きたくてたまらないのなら、ちょっと無理しておカネを出せば
行けるし、実際に行けなくとも、日本にいても生の情報にも触れられる》
技術の進歩は、前に書いた「ゲノム編集」もそうだが、私たち人間をますます、
限りなくどこまでも快適、便利にしていくが、その分、生きものの一種としての
もともと備わった感覚、身体力ばかりか、想像力をはじめとする心の力《それは
生きる気力というものに直結する根源的にだいじなものだと思う》を弱くさせ、
衰えさせている。
私は好きな旅で鉄道に乗っているとき、車窓からの風景を楽しみ、心を働かせる。
しかし、速いと景色が見えない。楽しめない。おもしろくない。
おもしろくないことが多いと、生きている楽しみが減りそう)
俳句に「山笑う」という春の山の明るさをうたった
季語があるけれど、山だけでなく海までもが、
「時間がない…急がねば…」「ああ、忙しい…」と
急いで生きる、時間という桎梏をまとった人間の
滑稽な姿を笑っている気がしてきた。