カメキチの目
「現象主義」という考え方があることは聞いたことがあった。
でも、よくわからなかった。
それが、この前の『社会を変えるには』という本でわかった(気がした)。
人とモノ。人と人。モノとモノ。
ふつうはそれぞれ、それ自体(一つの個体)が独立して存在するとみるけれど、現象学では何かとの“関係”として存在する、とみる。
たとえば、“私”はあなたあっての私。
つまり、①“関係”がキーワードである。
“関係”は仏教でいう“縁”に近い。
仏教といえば“無常”も説く。
それは現象学的では“関係”を変わらぬものとしてではなく、変わっていくものとして、時間の流れのなかでとらえようとする。
つまり、②“時間”もキーワード。
この観点から、社会運動をとらえれば、この前の安保強行採決は防げたのか?
コトはさように簡単にはいかないけれど、少なくとも落胆しなくてイイと思えた。
「こんな国民と政府の関係がいつまでも続くはずない。そのうちなんとかなるわな」
ところで、現象学は何も“社会”や“社会運動”についてだけのことではない。個人のレベルにも当てはまる。
思いあたるフシはありありだ。
たとえば、ケンカ。
ケンカ(国では戦争)は、そのときの状態(相手との“関係”)があり、自分または相手のひと言や態度が引き金、きっかけで起こる。その言葉、態度のもとには何かとの“関係”がある。
そして仲直り。いろいろあって(時間の経過)、多くはそこにこぎつく(たまにケンカ別れや離婚もありますが、私は若い人たちに、早く結論を出すことを強く戒めます)。
このとき、相手方の「ゴメン…悪かった」にたいていは納得する。納得すれば、「いや、私だって…」となる。お互いさまだ。
(ノーベル平和賞をもらった団体の受賞理由は“対話”だった。“対話”・“お互いさま“は人類共通の理念です)
では、なぜ、「ゴメン…悪かった」と(自分or相手)先に謝れるのか。
そう考えてみて私は気づいた。
社会や運動、人生でも、まずは他国や他の地域の人びとを、家族や友人・知人を、“信ずる”ことがたいせつだ。信じなきゃ“関係”が結べず、その“変化”もない。
そう考えて、私には日本国憲法のすばらしさが感じられた。前文はこうくる。
「…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」
93 リンゴ
古い世代のわれわれには、リンゴといえば、
♪「リンゴかわいやー かわいやリンゴ…」