カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.7.25 「あるがまま」を「あるがまま」に見る

今日は『あるがまま』を『あるがまま』に見る」ということです。

  

② 「あるがまま」を「あるがまま」に見る」

「(仏教の大きな教えの一つ、「中道」は)苦行にも楽業にも偏せず、

しかも「あるがまま」を「あるがまま」に見るというところに基盤をおく…

そもそも仏教は風土や気候・時代・社会に合わせて新しい経典が制作されるべきものであって、

唯一絶対の教えや聖典でなければならぬというものではな

仏教の智慧は、「あるがまま」を「あるがまま」に知見したとき、自ら生じる働きを伴うもの…

そのような働きを伴わない智慧は本当の智慧ではない…

社会的な不正を「あるがまま」に知見することは、不正をそのまま放置するのではなく、

不正を正すという主体的働きが生じてこそ、はじめて智慧と呼びえるのである…

「科学や芸術よりも上に立つ」というのは、仏教が知識や感性ではなく”智慧だから

 

      


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「『あるがまま』を『あるがまま』に見る」ということを、言葉にあらわせば

とても簡単だ。

だけど、そういう見方をするのは難しい。

(というより、できないと私は思う)

なぜなら、私たちは「偏見のかたまり」ともいうべき自分(「個性」)

生きているから。

自分を離れて生きることは不可能、あり得ない。

あたり前のこの事実。

よく自覚しておかなければならないと思う。

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あるがまま」といっても、そもそも、そのあるがまま」は場所や時間によって

いつも変化している。

(見ている主体の自分でさえ不変ではあり得ない。

今日の私は昨日の私ではない。ましてや、明日の私がどう変わるのか、予想はついてもわからない)

 

あるがまま」は、その時、その空間(場所)でさまざまなあり様を見せている。

仏教の基本的な教えの一つは「諸法無常」だと著者はいう。

そもそも仏教は風土や気候・時代・社会に合わせて…唯一絶対の教えや聖典

なければならぬというものではない

 

ひと口に仏教といってもさまざまで、原始仏教、小乗(上座)・大乗、大乗のうち

中国を経て日本に伝わった仏教でもいろいろ。

仏の教えの元の経典も膨大、「風土や気候・時代・社会」に合わせて多彩多様。

しかし、そういうあり方が自然なのだと著者はいう。

 

「『あるがまま』を『あるがまま』に見る」を、仏教のさまざまな姿に当てはめて

みれば、それぞれの教えのたいせつさが見えてくる。

(だから著者は、ブッダの教えに近い原始仏教、上座仏教はすばらしく、後の中国、その中国経由で

伝わった日本の仏教はつまらないとはいわない。

こういう考えを初めて聞いて、私はとても深くうなずいた)

 

      


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仏教の智慧は、「あるがまま」を「あるがまま」に知見したとき、

自ら生じる働きを伴うもの…

そのような働きを伴わない智慧は本当の智慧ではない…

 

社会的な不正を「あるがまま」に知見することは、不正をそのまま放置する

のではなく、不正を正すという主体的働きが生じてこそ、

はじめて智慧と呼びえるのである…

 

(仏教が)「科学や芸術よりも上に立つ」というのは、

仏教が知識や感性ではなく”智慧だから

 

上の引用を読んで、「仏の慈悲」を想った。

慈悲」は「智慧」とは対義語の関係で不即不離の間がら。

慈悲」に裏づけられた(というかそこから発した)智慧」でない限り

本物の「智慧」ではなく、単なる「知識」にすぎない。

ここで述べられていることにも、強くつよく、何度もうなずいた。

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また、「空即是色」「色即是空」との、わかるようでわからないようなことも

想った。

世の中や人生のすべては「実体」ではなく「空」ならば、

「あるがまま」を「あるがまま」に見ようにも、その前提となる「存在」そのもが

ある」のか「ない」のか疑わしくなる。

(なんてこった!

それなら、「正」も「不正」《「邪」も「悪」》もないことになってしまう)

 

しかし、「空即是色」「色即是空」はいまはどうでもよく、

社会や人間の現実、「あるがまま」を「あるがまま」に直視すれば、

明らかに「不正」(「邪」も「悪」)があり、それらを知ると自然に心が動く。

「正しい」「間違っている」、「よい」「悪い」という価値判断より先に

心が反応、動いてしまう。

(「慈悲」が発動してしまう)

その動いた心、「自ら生じる働きを伴うもの」を「主体的働き」にまでさせるのが

本当の(仏教の)智慧」なのだろう。

 

その智慧「科学や芸術よりも上に立つ」ものだから、

私たち人間・人類が行おうとしていることが、その智慧に照らしてどうなのか?

と、絶えず問わなければならない。

「科学や芸術よりも上に立つ」の科学」は、「技術」というほうがいいと思いました。

私はよく「科学技術」と両方をくっつけて使うけれど、正確には科学」と「技術」は違います。

2022.7.15、8.19、9.2、9.27、11.8の記事で「技術決定論」ということに触れたことがあります。

技術の進歩、発展が一見したところ「人間と社会のため」に見えても「果たしてどうだろう?」と、

仏教の智慧は問わなければならないという)

 

問わなければ仏教の智慧も、ただの「知識や感性」の一つにすぎない。

 

 

 

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                            ちりとてちん

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