カメキチの目
本を読んだ。
前にもこの人の本を読んだが(『人間にとって寿命とはなにか』2017.1.16~2.2)とてもよかった。
(3回に分け、三つの記事を書きます)
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①.功利主義
そもそも、なんで「生物多様性」がたいせつ?
と、本の出だしで根本的なことが問われる。
【引用】
1000万種(の生物が地球には存在するといわれている)もの多様性は必要か?
確かに生物多様性は大切なのですが、…食料とすることのできる植物は8万種ほど知られていますが、全地球で必要とする栄養の95%はたった30種の作物から得られているのが現実です。…普段お世話になっている生物は、せいぜい数百種程度。…
ある程度の生物多様性はいります。生態系の安定のためには多様な種がいることが必要だからです。ただしここでも、1000万種も必要かという疑問は成り立ちます。…
ここで「功利主義」が登場する。
【引用】
現代社会は功利主義と利己主義で動いています。まわりの人間の利害を損ねない範囲で、各人は自分が幸せになろうと利己的にふるまっています。そうやって最大多数の最大幸福が実現できる社会を目指すのが功利主義です。
功利主義であれ利己主義であれ、自分にとって役立つものにしか価値を認めません。つまり手段的な価値のみが問題になります。
もちろん、多くの人は皆、生物を殺すのはかわいそうだという感情を持っているでしょう。でも、それ以上に自己の欲望を満足させることを大切にしているから、欲望の充足に役立たないものには、とりわけての価値は置かない。配慮はしないという結果になるのだと思われます。そういう現状を認めた上で、役に立たない有象無象の生物たちをも含めての生物多様性を大切にする姿勢はどうしたら出てくるか…
深くうなずいた。
自分をふくめ、功利主義的に生きている現実を
ふり返えざるをえなかった。
(人間にとって価値があるかないか役に立つか立たないかという話は、
「人間」を「老人」「猫」に置き換えれば、前に書いた養老猛司さんの
『猫も老人も…』に通じます。
養老さんは人間《といっても死体》、本川さんはナマコ、それぞれ相手は違っても、
お二人とも「生きもの」を専門に扱っておられた)
「功利主義」という言葉は教科書でのことでは
なかったのだ。
たしかに、現代日本人の多くが生きる世の現実は、
この原理に根ぶかく支配されている。
(「生物多様性」はたいせつだと思い、思っているからこそこういう本を
読みたくなるのですが、自分の考え・思いの浅はかさに気づかされた)
著者は(生物の)「内在的価値」を重んじる。
つまり、「存在」するだけで価値がある、
尊いとおっしゃる。
(当然、私たち「人間」もそうなのだ)
生物の場合、その価値の実体などは、現在は
わからないものがあるけれど、
「『わからない』=無い」ではない。
【引用】
(シュバイツァーの言葉)「従来の倫理すべての大きな錯誤は、ただ、人間の人間に対する関係のみを問題にしていたことにある」
彼のルールは「生への畏敬」でした。…
だが、
【引用】
多様な生物たちに内在的な価値を認めることから、生物たちを守るべきだという結論は、直接には導き出せません。導き出すには、人間と生物たちをつなぐものが必要です。
たとえば神や「(いのちは)続くという目的」など、両者に共通のものを考えるか、礼儀や「権利-義務」という人間が生物と付き合う上でのルールを持ち出す必要があるのです。…
(また)内在的な価値を認める場合でも、すべての生物が平等の価値をもつと皆が考えるわけではありません。
他の生物より人間に大きな価値を置くのは常識的な感覚でしょう。蚊や病原菌に負の価値を負わせるのも理解できることです。
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現代を支配する功利主義。
その思想的背景は、「生物」(いのちある)とは真反対の
「物理」(いのちがない)、モノにもとづいた発想にあると
本川さんは言う。
【引用】
■物理学的発想は生物多様性に価値を置かない
「物理学の考え方は…ものごとを基本的に、単純に、統一的に考えようというものです」単純も統一的も、多様性の対極に位置するものです。…
■粒子的私観
粒子主義は物理学や化学において、そして生物学においても勝利を収めました。自然科学だけではありません。社会科学・人文科学においても粒子主義が基本になっています(「粒子」は数値、数量としてあらわれ、生きた人間の動き、行動も数値化《情報化》され、膨大な量がデータとして集められ、一定の「原理」が生みだされる)…
(情報万能の現代社会を痛烈に笑う養老さんと、ここでも合います)
功利主義とは別名「情報主義」だろうか。「=」では
ないのだろうが、きわめてよく合う、なじむ。
すべての事物・事象を0と1で、無限なその組み合わせ
であらわす。電脳(コンピュータ)の原理。
(まさに現代の「神さま」「全能者」)
本川さんは続けて述べる。
人間は、0と1でピシッと割り切れるアメーバーの
ような単細胞の存在では絶対ないことを。
【引用】
■私の抱く私のイメージ
まわりの人にあなたはこういう人物だというイメージを与えているのは、体や思考の特徴、つまり個体としての特徴ばかりではありません。持ち物、家族、付き合いのある人たち、家系、学歴、過去の業績等々、物であれ人間関係であれ、さまざまなものが総合されてあなたのイメージが作り上げられています。
■粒子的私観の問題点
結局、まわりの好きなものもそうでないものも、理想に合致するものも理想とかけはなれたものも、〈私〉の一部としながら(つまり〈私〉の中に多様性を同居させながら)理想とは必ずしも一致しない生き方をして、状況に合わせて変わり、境界もはっきりしていないものが現実の〈私〉なのでしょう。でも、そういうものが人間だ、生物というものだということを、粒子的私は認めたがらないのです。
■仏教においては私という実体はない
そこで「私は無い」などとにべもないことは言わずに、私はあるのだが、私を概念としてではなく現実に近づけて捉え、苦労して育てている子どもも〈私〉、相互作用子として取り込んでいる相手も〈私〉と、〈私〉の範囲をより広く捉えるように提案したいのです。範囲を広げれば、どうしても〈私〉そのものが多様な要素を含むことになり、多様性に価値を置かざるを得なくなります。…
「多様性」を重んじることは、仏教でよくいう「縁」を
だいじにすることでもあるのか。
いろいろな縁が重なって、私は存在し、
私は生きている。