またまた「老い」の話。
こんどは大学の社会学の先生が著者なのですが、アカデミックな中身ではありません。
〈老い衰えゆくこと〉は「できていたことができなくなる」ことであるとし、それが行き着いたところ
「介護」の現場で見聞きした具体的なケースごとの体験を下敷きに、その具体的事実を述べ、考察する
形で述べられます)
『老い衰えゆくことの発見』 天田城介 という。
(グーグル画像より)
「はじめに」で、〈老い衰えゆくこと〉という誰にも訪れる生命現象への対応を
人は「介護」という形でなそうとしているが、その際、現代でも日本は親子という
「運命の呪縛」により、家族が親の介護をするのがあたり前だとされていると
述べられる。
【引用】「「選ぶことができない関係」のもとで関係を形成を形成してきたこと自体が、
「この関係」を選択することを余儀なくさせているのだ。
「親を選ぶことができない」中で形成されてきた関係それ自体が、
親を放り投げる選択肢を選ぶことを困難にさせてしまう」
つまり、親子関係という(あえて言うなら)「くされ縁」(「運命の呪縛」)は、
「親を放り投げる選択肢を選ぶこと」をさせないというわけだ。
〈老い衰えゆくこと〉という不可避的な、誰もが体験する普遍的な事実は、
個別的な、偏狭な「親子関係」(個人的な「運命」《宿命》)への対応、「介護」に
還元するのではなく、社会的な出来事としてとらえなければならないと著者はいう
つまり、その対応は社会が責任をもって行うということ。
書きたいことはいっぱいあるのですが、とくに強く印象に残った三つのことを
二回に分けて書きます。
(よろしければ直接、本書を手に取られることをお勧めします)
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① 「できたことが、できなくなる」という老い衰えてゆくことの圧倒的な現実
介護されるのは「嫌だけど、この人だったら介護されてもよい」
【引用】
「〈「できる私」の物差しこそが〈老い衰えゆくこと〉を過酷にする〉
まず問うべきは、「できない私」を痛感することで生じる苦悩や葛藤を少しでも軽減・除去するための
手立てではなく、「できる/できない」が私たちの「物差し」になっている社会のほうなのである。…
様々なことができなくなってはじめて、私たちの社会において、「できる私」であることが私たちを
価値づけている「物差し」であることを知るのだ。
…
〈身体を他者に曝け出さざるを得ない〉
私たち「大人」は(介護を受けることは)いつのまにか、他者に曝け出したりすることに羞恥心や
申し訳なさや罪の意識を感じてしまうようにしまっているのである。…
当事者たちは「『できる私』という自己イメージと『できない私』の現実とのあまりの落差から
自らのメンツやプライドがズタズタに切り裂かれる」ことを経験していくことになるのだ。…
「好き好んでケアを受けている人はいない」…
ゆえに介護とは、自らの意思とは無関係に、意思に反して襲いかかってくるような、…自己にとって
制御不能で「主体」それ自体を剥奪されるかのような〈老い衰えゆくこと〉という事態に伴って生じる
圧倒的な現実として、当事者に感受されることになる。…
〈老い衰えゆくこと〉の語り難さ・語り得なさという現実に含まれる根源的暴力性と、
〈老い衰えゆくこと〉によって他者から介護や支援を受けるという受動性が孕む暴力性。…
要するに、介護とは「嫌だけど、この人だったら介護されてもよい」…ということを欲することで
可能になる行為なのだ。」
(注:「」〈〉太字はこっちでしました)
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〈老い衰えゆくこと〉は自然な、誰でもが体験することである社会的な出来事
であるから、それに対応する「介護」も親子、家族という「運命の呪縛」から
放たれなければならない、とはいっても、「自らのメンツやプライドがズタズタに
切り裂かれる」のはイヤだ。
できれば、「できない私」を曝す範囲は狭くしたい。
「私はいまは介護が欠かせないほどの身体障害者ではないけれど、もっと老いれば
必要になるだろう。そうなったらイヤだ」
(もっとも、いまでも少し《?》は介護してもらっているかなぁ。
ふだんから杖をついてはいるが、フラリと車の通るほうによろけることもあり、バランス乱して
転倒することもあって危なっかしいので外を歩くときはたいていツレに手をとられている)
かつては鈍くともふつうの運動、動作ができていた。高い山へも独りで登った。
それが事故に遭ってから、突然、「できの非常に悪いロボット」みたいになった。
「できたことが、できなく」なったのだ。
身体障害者になって退院しても障害のせいで半年以上嘔吐していた。その始末を
はじめ、介護されることはいっぱいあって慣れた。
いまはもちろん「(介護されるのは)嫌だけど、この人だったら介護されてもよい」