いま住んでいる街は古い歴史のある土地だからか、歩いていると、しょっちゅう、
神仏に出あう。
私は自称「仏教者」だがいい加減な人間なので、いちいち神仏の区別はしない。
出あえばルーティンのごとく、みな(一方は杖を持っているから)片手で合掌している
かのようなポーズをとる。
(よく出あうから面倒なので、鳥居を前にしたからといって「二礼二拍手一拝」に変えない)
仏教はすばらしい教えだと思っているので、死ぬまで学びたい。
というわけで、
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(グーグル画像より)
を読んだ。
仏教は、ゴータマがインドでつくったが、身分差別の「権化」とでもいえる
「カースト制度」にどう向き合ったのか? ということが、
私は昔からずっと疑問だった。
その答えが、この本には明確でわかりやすく述べられており、深くうなずいた。
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「〈インドに仏教が生まれるまで〉
(カースト制度をなぜ廃止できないか?)というと、
その観念が「理屈」ではなく「生理的な現象」としてとらえられているからです。
…
インドの場合は制度そのものが宗教の上に乗っていたので、それを否定するためには、
新しい宗教を作るしかなかった」
インドではゴータマが生まれる前からバラモン教(いまのヒンドゥー教の元)が作った
生まれながらの身分による差別、「カースト制度」という非合理で苛酷なものが
厳として存在していた。
(それが「差別」であると感じ、認識できるためにはそうでない状態、「平等」がわからなければ
ならない《「わかる」というより「感じる」と言った方がいい》。
だが、オギャアーと誕生したときの身分は肌に馴染んだ自然状態のようなものなので、
物心ついてから「こりゃオカシイ、間違っている」と気づく者は少ないと思う)
「平等」がわからないほど肌に沁みこみ、馴染ませられていた差別状態は
インドの人々には「生理的な現象」にまでなっていた。
(「生理的な現象」を止めるのは非常に厄介、困難だ。
身分差別はスマートな形に変わり、現代でも続いている。
「生理的な現象」にまでなっている差別意識、差別感情は、決して他人ごと、「カースト制度」だけの
問題ではなく、自分ごとでもある。
「生理的な現象」という点では、日本の「部落差別」と似ているのかもしれない。
そして、民族差別は世界各地で「普遍的」に見られる)
「インドの場合は制度そのものが宗教の上に乗っていたので、
それを否定するためには、新しい宗教を作るしかなかった」
(「カースト制度」はバラモン教に支えられているので、「反バラモン」として仏教が生まれた。
《ということは逆に言うと、「カースト制度」の存在が仏教を生んだ》)
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これは単純な話だ。
(こんな単純な話は、仏教の世界では大昔からわかっている当たり前のことだったのだろうか。
私が知らなかっただけのことだろうか?)
そういえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地はエルサレムだけど、
これらの宗教誕生の背景には、そこが砂漠地帯という苛酷な自然環境にあった
ということがいわれる。
苛酷な自然環境にあった民族だからこそ、これらの宗教が生まれた。
(だから、西洋キリスト教世界では自然は「克服すべきもの」とされる)
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ところで、差別というものは、社会を維持、続けていく(ということは生きること)
ためには「必要悪」といえるものなのだろうか?
これほど文明・文化が進化、発達しても、いまだになくなるどころかますます
「格差」(は遠い未来に「自然消滅」すると、若いころはおめでたいことを思っていた)
という名の差別は大きくなろうとしている。
食う、生存することが精一杯の原始社会では、お互いが平等な関係である必要が
あった。
しかし、余りものが出るようになると、その余りものを独占して所有する者と
そうでない者が生まれ、差別が生まれた。
(古代ギリシャの「民主」とは、多数の奴隷階級が少数の市民階級の経済・生活という土台を支えて
こその、市民のための「民主主義」「平等」だった)
すべての人々が生きていくだけの生産力がなかった古い時代・社会では、
衣食住をめぐる争い、戦いは避けられず、差別も避けられず、「仕方なかった」
(「必要悪」)面があったかもしれない。
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だが、現代は違う。
社会の仕組みを変えたり、仕組みを変えなくても制度を工夫し、改善すれば
ずいぶん誰もが生きやすい世の中になるほど、社会全体の生産力は上がった。
というのに、差別は普通にある。
「カースト」のような身分差別といった露骨なものではなくとも、男・女、
正規・不正規…社会の至るところに存在している。
(「ハラスメント」がいわれるようになり、「嫌だ」と感じることがその事柄に応じて「○○ハラ」
と社会的に認知され、酷い場合は犯罪に昇格した。
「差別」は「ハラスメント」ではないが、その根っこ)
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やっぱり差別は「必要悪」なのだろうか?
(「おれが勝ち、おまえが負け」と争い、「私が一番、あなたは二番」とランキング付け)
〈オマケ〉
NHKドラマに『育休刑事』というのがある。
最近の話は、主人公の奥さんが高校時代の同窓会に出ての事件を扱ったもの。
物語のストーリーはいまはどうでもいいのだが、主人公は同窓会というものが嫌だ。
何故なら、学校時代の親交を懐かしみ温めるものではなく、現在の自分の社会的ステータスを
見せびらかす、自慢するものになっているものが多いと思うから。