カメキチの目
きょうは久しぶりの禅語です。
行 住 坐 臥(ぎょうじゅうざが)
朝起きたら、両手に水をすくい、顔を洗う。
きちんと掃除をし、すんだら食べものをいただく。
夜には床に伏して、眠る。
…
そして、一日になんども立ったり坐ったり…
そういう日常の生活、同じことの繰り返し。すべて
仏法の修行なのだ。
ときには、ふだんは無意識に繰り返している一挙手一投足、立ちい振る舞いを意識してみる。
ていねいに、きちんと、やってみる。
ときには、「威儀を正し」てみる。
各地の寺で(禅寺だけではない)坐禅やさまざまな修行が行われているが、それ自体は別にむずかしい行為ではないようだ。
なかには比叡山の「千日回峰」みたいな超人的なのもあるようですが。
仏法の修行というのは、要するに、シンプル・ライフを過ごす、繰り返すなかで、人間にほんとうに必要な資質を身につけ、モノゴトの是非(“善悪”に似ているようでも違う)を判断できるようになることだと思う。
同時に要らないというものを捨て去る。
キリスト教やイスラム教の信者さんであれ、無宗教の方であれ、ちょっとおもおもしい態度をとり、尊敬する偉い(エラそうな、ではありません)人になった気分を味わってみれば、ひょっとして、なにかの発見、閃きがあるかもしれないですね。
私の身体は頭・手・足がバラバラに胴体にくっついた感じで、一体感がないのです。まるで壊れかかったロボットみたい。
だから、身体を動かすということが億劫で、「行住坐臥」は必須です。
テレビをみるときも、ときどき呪文のように、「行住坐臥」「ぎょうじゅうざが」ととなえ、背筋をシャンと伸ばすのであります。
(つい先日、胃がないのでよく噛みのみ込むのは常識なんですが、いつの間にか姿勢が悪くなっていたようで、食べた物が詰まり、呼吸がすんなりいかず、大げさですが死にそうになりました。ガンとかで胃を喪失した人はときどきなるようです。もっとも人によりますね)